2012年6月3日日曜日

QandA (3)-古代エジプトに関するQ & A (3)


古代エジプトに関するQ & A (3)

質問101. プントの女王はDercum's diseaseだったそうですが、どんな病気ですか? (鈴木)

Dercum's diseaseはAdiposis Dolorasa(疼痛性脂肪過多症)のことで、贅沢な生活をしているうちに、身体に脂肪がつきすぎて、身体を動かすと痛みを伴う病気のようです。普通の肥満どころではないようです。きっと元大関の小錦さんのような女王がエジプトの遠征隊を出迎えてくれたのでしょうね。(西村)

質問102. クロールのような泳ぎをするヒエログリフがあるそうですが、どんなところに記されていますか? (伊藤)

クロールをしている人に見えるヒエログリフサインは第0王朝〜第2王朝に、特に第1王朝のデン王の時代の円筒印章や容器に見られます。年代は紀元前3,100年頃〜2,600年頃です。スケッチ程度ですが、Jochem Kahl, Frühägyptisches Wörterbuch, 2.Lieferung m-h, Wiesbaden, Otto Harrassowitz, 2003, pp.224-228に証拠が挙げられています。この辞書によれば、発音はnb(ネブ)、意味は「経済施設の一部門あるいは経済施設で働く人」です。この時代に円筒印章や容器に記されたヒエログリフサインは所有者や生産地、食料の管理施設などを表すために使われるので、クロールをしている人に見えるヒエログリフサインは実際には水泳とは何の関係もないと思われます。

ちなみに「泳ぐ」という意味の古代エジプト語はnbi(ネビー)で、こちらはAdolf Erman und Hermann Grapow ed., Wörterbuch der Ägyptischen Sprache, 2. Bde., Berlin, Akademie Verlag, 1982, S.236によれば、ピラミッド・テクスト以来使用例が見られるそうです。水を表す限定詞の前に横に倒れた人のサイン(A15)が使われています。残念ながら泳いでいる人のサインではありません。(西村)

質問103. 古代エジプトには映画「ハムナプトラ」に出てくるような鍵で開ける本があったのですか? (鈴木)

古代エジプトの書物はパピルスの巻物で、現在の本のように綴じられていませんでした。くるくるとパピルス紙を巻いて、紐で縛って、紐の結び目に粘土の塊を置き、印章で封印されていました。書物を読むときはその粘土の封印を取り除きます。だから本を開けるための鍵もありませんでした。(西村)

質問104. 古代エジプトには映画「ハムナプトラ」に出てくるようなスカラベに肉体を食べさせる処刑方法があったのですか? (鈴木)

ありません。古代エジプトの死刑については、質問46の回答をご覧下さい。しかし、『大英博物館双書1 古代エジプトを知る   ミイラ解体』(学芸書林、1999年)、126-8頁によれば、古代エジプトのミイラはデルメステスという肉食性の甲虫によって荒らされていることが多いようです。デルメステスはスカラベ(聖甲虫)とは異なる種類の昆虫で、防腐処理をする前あるいはその最中に死肉に卵を産みつけ、包帯の下で孵化し、死肉を食べて、成虫となり、包帯の外に出ることなく、死んでいきます。ミイラを解剖すると、数十〜数百のデルメステスの死骸が発見されるそうです。映画「ハムナプトラ」ではこのような事実に基づいてストーリーが作られたのだと思います。(西村)

質問105. スコーピオン・キングは実在した人物ですか? それとも架空の人物ですか? (鈴木)

スコーピオン・キングと呼ばれる王は確かに実在しましたが、どのような業績のある王なのかはよくわかっていません。ヒエラコンポリスの神殿跡から出土した大型のメイスヘッド(棍棒頭)に白冠をかぶり、鋤を持って地面を掘ろうとしている王のレリーフがあり、その王のそばにサソリのヒエログリフがあることから、その王は便宜上スコーピオン・キング(2世)と呼ばれていますが、本当の名前は知られていません。年代的にはナルメル王の直前に位置づけられています。また、ナルメル王より100年ぐらい前にもスコーピオン・キングがいました。彼のアビュドスの墓(U-j墓)からは最古のヒエログリフが記されたラベルが多数発見されています。そして複数の土器に大きなサソリの描写があることから、彼も便宜上スコーピオン� �キング(1世)と呼ばれています。だから、映画「スコーピオン・キング」は実際にはこれらの二人の王たちとは何の関係もなく作られたストーリーと言えますね。スコーピオン・キングについては、「古代エジプトの歴史 2. ナカダ3期・第1王朝」のサソリ王の記述もご覧下さい。(西村)

質問106. ロゼッタ・ストーンに記されているヒエログリフは古代エジプト語のどの段階にあたるのですか? (嵐)

新・中期エジプト語です。新・中期エジプト語は新エジプト語がアマルナ時代に書き言葉に採用されてから、もっぱら公式記念碑文と宗教テクストに使用されるようになった古代エジプト語で、中期エジプト語の文法的要素を維持しながら、単語の綴りは時代とともに変化します。ロゼッタ・ストーンはプトレマイオス5世の治世9年に発布されたメンフィス勅令を記したものですが、ギリシア・ローマ時代にはヒエログリフ・サインの爆発的な増加が見られ、その数は750→5,000になりました。さらに当時のヒエログリフは神官たちの遊びと連想から生じた特殊な綴りで記されています。(西村)

質問107. 逆行書法はすべての宗教テクストで使われるのですか? なぜ宗教テクストでは逆行書法が使われているのですか?  (速水)

『死者の書』『イミドゥアト』『門の書』はもちろん古王国のピラミッド・テクストやメンフィス神学を記したシャバカ・ストーン(第25王朝)も逆行書法で書かれます。おそらく世俗のテクストと容易に識別できるように逆行書法が使われたのだと思います。(西村)

質問108. Aa1のサインは何を象っているのですか? コインですか? (速水)

いえ、それはありえません。古代エジプト人はコインを知らなかったからです。古代エジプトが貨幣経済に移行するのはプトレマイオス王朝になってからです。末期王朝に外国人傭兵たちの間で、またナウクラティスで商業活動をすることを許されていたギリシア人たちの間で、フェニキアのシェケル、アケメネス朝ペルシアのダリク、ギリシアのドラクマなどのコインが流通しますが、それらは古代エジプト人には何の価値もありませんでした。Aa1のサインについては、何を象っているのか不明です。(西村)

質問109. ヒエログリフの縦書き・横書き、右向き・左向きには何か意味があるですか? (高橋)

古代エジプト人は碑文が記念碑のどこに彫られるか、どんな内容の碑文を記すのかによって縦書き・横書き、右向き・左向きを決めていました。例えば、オベリスクや柱、彫像の背柱など縦長の部分に彫るときは縦書き、軒縁や扉のまぐさ、建築物の基礎部分など横長の部分に彫るときは横書き、場面のタイトルは横書き、場面の中に登場する人物の名前やエピセット、言葉などは縦書き、石碑に彫られた戦勝報告や勅令などは横書き、宗教テクストは常に縦書きですね。文字の向きは通常は右向きですが、建築物に彫られるときは文字は建築物の中心を向いています。門や建築物の正面はシンメトリーに彫られます。ヒエログリフは、縦書き・横書き、右向き・左向きのいずれでも、美しく彫ることが出来る非常に優れた文字だ と言えますね。(西村)

質問110. ローマはなぜエジプトにまで影響を及ぼすことが出来たのですか? (絹田)

プトレマイオス朝は、フェニキア沿岸の東西交易の拠点をめぐって、たびたびセレウコス朝シリアと戦争をしていました。しかし、プトレマイオス5世がキプロス以外の海外の全領土を喪失し、ローマに援助を求めたことによって、ローマの干渉が始まりました。さらにプトレマイオス6世以降王家では兄弟姉妹の権力争いが激しく、ローマに内政干渉の絶好の口実を与えることになりました。ファラオ時代王が自分の姉妹や娘たちと結婚することは、王家の財産を分散させずに維持するのに役立ちましたが、プトレマイオス時代の王家の兄弟姉妹婚はまったく逆だったのですね。クレオパトラ7世の死後、エジプトがローマ帝国の属州となり、ローマの穀倉として徹底的に搾取されたことはご存知の通りです。(西村)

質問111. zbi n kA.fとはどういう意味ですか? (道下)

直訳すると「自らのカーの下へ行く」であり、古王国においてよく使われた「死ぬ」の慣用表現でした。カーとは何か? なぜこの表現が「死ぬ」を意味するのか? 人は生まれるとき、神からカーを与えられます。カーは「生気、活力」です。人が元気に活動出来るのはカーのおかげです。カーが弱ると、心身ともに疲れ、病気がちになります。カーが離れると、人は死にます。生前のように元気に活動するために、死者のバーはカーの下へ行きます。バーとカーが一つになると死者はアクと呼ばれる霊的存在になり、日中墓から現れて、神々のようにあちこちへ移動することが出来ます。ただし、夜にはバーはミイラにされた自分の遺体に戻ります。そして死後もカーが弱らないように食べ物が墓に供えられます。(西村)

質問112. 古代エジプト人はプントの人々と何語で話したのですか? (鈴木)

プントの位置は東スーダンかエチオピアのエリトリア地方と考えられています。現在これらの地域ではアフロ・アジア語族の中のエチオ・セム語あるいはクシ語が話されています。古代でもこれらの地域ではエチオ・セム語あるいはクシ語が話されていたと思いますが、果たして通訳がいたのかどうかが不明です。エジプトによるプント遠征は、古王国第5王朝のサフラー王、ジェドカーラー・イセシ王、第6王朝ペピ1世の治世の後、第18王朝ハトシェプスト女王の治世まで行われず、なんと約800年ぶりだったからです。しかも、ハトシェプスト女王のプント遠征は、女王の葬祭神殿に彫られた碑文の中にプントの女王が話した言葉が記されているにもかかわらず、沈黙交易、すなわち無言のまま物々交換をする方法だったと言� ��れています。プント遠征はラムセス3世の治世まで散発的に行われましたが、一体何語が話されたのかは不明です。(西村)


ピラミッドはどのように背が高くなかった

質問113. 映画ではクレオパトラは白人ですが、エジプトはアフリカにあるので、黒人ではないのですか? 髪の毛の色は何色ですか? (絹田)

プトレマイオス朝はマケドニア系ギリシア人の王朝で、しかも王家は兄弟姉妹で結婚を繰り返し、エジプト人と結婚することはなかったので、黒人の血は少しも混じることがなかった、というのが従来の定説でしたが、2009年3月15日に報道されたニュースによると、トルコのエフェソスで発見されたアルシノエ4世(クレオパトラ7世の妹)のものと思われる頭蓋骨を調査したところ、白人(ヨーロッパ人)、古代エジプト人、黒人(アフリカ人)の特徴が見られ、彼女が混血だったことが判明しました。彼女の復顔図(下の写真)を見ると、黒髪で、肌色も有色です。従って、クレオパトラ7世も混血の可能性があります。プトレマイオス朝の王家の家系についてもっと調査が進めば、クレオパトラ7世がマケドニア系ギリシア人だったのか、北� �フリカ人だったのかが明らかになると思います。(西村)

質問114. 中王国の供養碑では、「私は飢えた人々にパンを与えた。」とか「裸の人々に衣服を与えた。」などなどいろいろ述べられていますが、これらは誰に何のために訴えているのでしょうか? (中尾)

供養碑や墓碑銘で故人が自伝碑文で自分の有能さや道徳的行いの数々を述べているのは、第一に神々に自分が来世で永遠の生命を得るのにふさわしい人物であるということをアピールしています。第二に、そのような碑文は、墓の前を通り過ぎる人々に、自分の名前を讃えさせ、供物を要求することを正当化しています。特に中王国では自分がマートを常に実践していたことが強調されます。というのは、マートの実践が永遠の生命を獲得する唯一の方法と考えられたからです。新王国の死者の書ではそれが画一的な否定告白になります。面白いですね。(西村)

質問115. 古代エジプトでは、外科手術が行われていたことや医学パピルスにさまざまな治療法が記されていることから、医療行為が進んでいたと思います。それなのに、なぜ死亡率が高いのですか? (中尾)

人々が神々に祈る時、第一の嘆願内容は病気治癒でした。いくら外科手術が高度だったとしても、治せない病気はいくらでもあったでしょう。トイレも風呂も無いので、衛生状態は非常に悪かったはずです。最近アマルナで発見された遺体をすべて調べたところ、それらは栄養状態が悪かったというニュースを聞きました。労働環境は過酷です。日中の最高温度が50度を超す中で何時間も肉体労働をするのですよ。王族・貴族を除いて、一般の人々はすぐに医者に見てもらえなかったでしょう。必然的に死亡率は高くなると思います。(西村)

質問116. 王が死後ピラミッドをつきぬけて、星に加わるというのは、王にのみ当てはまる思想だったのですか? (横山)

「ピラミッド・テクスト」には、天界は太陽神ラーに支配された神々の王国で、王は太陽神ラーの息子ホルス神なので、死んだらハヤブサとなって天界に戻り、太陽神ラーとともに天界を支配するという思想や、北極星の周囲を回る周極星は、地平線より下に沈むことなく一年中見えるので、「不滅の者たち(イヘムーセク)」と呼ばれ、永遠の生命を得て太陽神ラーの船を漕ぐ霊たちであるとみなされた思想が記されています。これらは本来は王にのみ当てはまる思想でしたが、早くも第6王朝には王妃のピラミッドにも「ピラミッド・テクスト」が記されるようになったので、王にのみ当てはまる思想ではなくなりました。(西村)

質問117. アマルナ宗教改革で人々はアテン信仰を実際に行いえたのですか? なぜアケナテンは宗教改革を行うほどの強い意志を持てたのですか? (横山)

王に付き従ってアマルナに移住した一部のエリートたちを除いて、その他の人々はアテン信仰を行うことは出来なかったのではないでしょうか? 単に信仰する神を変えたり、あるいは信仰する神をアテン神のみに限定することが、宗教改革ではなかったように思います。アメン神が国家神の時は、人々も神々に祈ることが出来ました。しかし、宗教改革後はアテン神と話すことが出来るのはアケナテンのみでした。アケナテンもアテン神の息子にして神でした。アテン神とアケナテンの父子関係は従来のアメン神とファラオとの関係よりもはるかに強化され、常にアケナテンがアテン神と人々との間に介在しました。アテン神と人々が接する機会はまったくなかったのです。だから、エリートたちは宗教改革によってアケナテン� �祈らなければならなくなり、人々は祈ることの出来る神を奪われた形になります。つまり祈る自由すら奪われたと言うべきでしょうか? とは言っても、やはり人々は祈る神を必要としますから、従来通りの神々を信仰し続けたと思います。

一体人々にとってアテン神とはどんな存在だったのでしょうね? 争い事を裁いたり、心配事や悩み事を解決するための神託を述べてくれるわけではないし、病気や呪いから救ってくれるわけではないし、ちっともありがたい存在ではなかったのではないでしょうか?

アケナテンが宗教改革を断行する強い意志をどのようにして持つことが出来たか、それは新王国において軍事力を背景にファラオの発言権が飛躍的に増したからではないでしょうか? シリア・パレスティナの帝国領土から奪ってきた貴重な物品を大量に神殿に寄進してやることで、ファラオは神官たちよりはるかに優位に立ち、神官たちの権力を押さえつけることが出来たでしょう。神官たちがファラオに従わなければ、神殿に食料も何も与えなければよいのですから。(西村)

質問118. 古代エジプト国家における排他性や他の交流していた地域・部族との間で交わされるピジン言語といったものは、どの程度解明されているのでしょうか? (横山)

王権のイデオロギー上は、外国人はみな野蛮で、卑怯で、劣っていて、動物並みの扱いです。でも実際には外国人であることを理由に、居住地や職業が制限されたり、エジプト人よりも重たい税を課せられたりというような、差別がなされたということはありません。古代エジプトでは、外国人であっても古代エジプト語を話し、古代エジプトの慣習を十分身につけている人ならだれでも、官職に就くことができました。戦争捕虜としてエジプトに連れて来られた外国人でも、優秀な人は、奴隷の身分から解放され、自由人として生きることが出来ました。第一中間期以降そのような外国人が結構いたようです。ただ新王国の後、外国人支配が長くなると、さすがのエジプト人も外国人嫌いになっていったようです。

古代エジプト人はリビア人、ヌビア人、そして西アジアのさまざまな民族と交流していたので、古代エジプト語とそれらの民族が話していた言語との間にピジン語が生まれていてもおかしくはないのですが、今のところピジン語に関する研究は見たことがありません。せいぜい古代エジプト語に入ったセム系の単語あるいはその逆の例が研究されている程度です。ピジン語が定着してクレオール語になり、文字として表記されるようになっていれば、研究可能でしょうが、たぶん文字として残っていないので、研究されていないのではないかと思います。(西村)

質問119. エジプトという国はどの程度の地域・部族までと交流していたのですか? そこでもやはり基本は「朝貢」だったのでしょうか? (横山)

エジプトの交流範囲は狭くても南パレスティナ、リビア砂漠のオアシス群、下ヌビアで、王国最盛期にはヒッタイト、ミタンニ、アッシリア、バビロニア、シリア、パレスティナ、エーゲ海地域、上ヌビア、さらにはクレタ島やプント(エチオピアのエリトリア地域)とも交流がありました。朝貢させられていたのは、前者の地域で、それ以外の地域・部族とは交易もしくは外交上の贈り物の交換と政略結婚が基本でした。古代エジプト語の碑文では、交易や贈り物の交換によってもたらされたものも貢ぎ物と呼んでいますけどね。医師、職工、通訳、書記などが他の地域と行き来することもありましたし、贈り物の中には征服された部族もいて、ヌビア人がヒッタイトに送られたり、ヒッタイトのカシュガ人がヌビアに送られたりということ� ��ありましたよ。(西村)

質問120. 中世ヨーロッパでは「神の叡智」と「人の学問」は対立関係にありましたが、古代エジプト人は科学を探究することによって、「神の領域」を侵犯するという観念に襲われなかったのですか? あるいは王や神官たちがその方面の発達を禁止しなかったのですか? (横山)

古代エジプト人は創造神が世界を創造した時に世界に与えた秩序(マート)を侵犯することに対しては「神をも恐れぬ所業」として厳罰を以て当たりましたが、科学の探究にはそのような意識を持たなかったようです。幾何学、数学、天文学等、科学によって発見された法則はマートの一部であり、むしろそのような自然界のさまざまな法則を知ることは、神々の力の偉大さを知ることにつながるので、古代エジプト人は科学を重んじました。また、幾何学、数学、天文学などと深い結びつきがあるトート神とセシャト女神は初期王朝からプトレマイオス時代まで長く崇拝されましたよ。(西村)

質問121. 東の空からは毎朝太陽が昇り、夕方西の地平線に沈みます。北の空には北極星があります。では南には何があるのですか? (比佐)

ナイル川の水源です。命の水が流れてくるのは南の方角からです。もしかしたら、冬の夜空に南の空に輝くシリウス星ではないかと思った人もいるでしょう。しかし、古代エジプト人がシリウス星に注目したのは、夏至が近づく頃東の空から日の出直前に昇ってくる時でした。それが古代エジプト人にとってナイル川の増水の始まりを告げ知らせる現象だったからです。だから、南には何があるのかと尋ねられたら、やはりナイル川の水源でしょう。(西村)

質問122. 古代エジプトでは男性の恋人を「兄」、女性の恋人を「妹」と呼んでいたそうですが、女性が年上でも「妹」と呼んでいたのですか? 王族でも一般市民でも同様に呼んでいたのですか? (堀)


方法と理由エジプト人がミイラを作ったの

一般に「兄」と訳されている古代エジプト語はセン(sn)、「妹」と訳されている古代エジプト語はセネト(snt)ですが、センは「兄、弟、伯父、叔父、甥、夫」、セネトは「姉、妹、伯母、叔母、姪、妻」を意味します。片方の親が異なる兄弟姉妹もセン、セネトと呼ばれます。さらに親族関係と姻戚関係だけではなく、「仲間、親友」を意味するときもセン、セネトを使いますし、「恋人」を意味するときもセン、セネトを使います。だから、年齢は関係ありません。王族でも一般市民でも同じ呼び方です。(西村)

質問123. 古代エジプト人の理想像とはどのようなものですか? (横山)

古代エジプト人の理想像を最も良く表している文学作品は「シヌヘの物語」です王への忠誠心に厚く、自制心があり、弁舌にすぐれ、神々に対して敬虔で、誰に対しても誠実であること、すなわちマートを行い、マートを話す者が理想のエジプト人です。この理想は官吏養成のための教訓文学の中で繰り返し述べられています。またこの理想はトトメス3世が宰相レフミラーに与えた訓示やホルエムヘブ王の勅令でも示されています。(西村)

質問124. 古代エジプト人は皆既日食の予言をできたのですか? (小橋)

E. Hornung, "Die Sonnenfinsternis nach dem Tode Psammetichs I. ", ZÄS 92 (1965), 38-39によれば、古代エジプトで最初の皆既日食への言及は第26王朝プサンメティコス1世の死後に見られるそうです。プサンメティコス1世が亡くなったのは紀元前610年です。そして、斉藤尚生著『有翼日輪の謎』(中公新書、1982年)のp.120に、「紀元前1352年8月15日11時40.0分に皆既日食が起こっていた。」という記述があります。ちょうどアマルナ時代です。(ひょっとして、アフエンアテン王がアテン神の一神教に傾倒したのは、治世初めに皆既日食を目撃したからか?) しかし、古代エジプト語のテクストには、他に皆既日食に関する記述がありません。皆既日食が起これば、真っ暗になるので気づかないはずはありませんし、記憶に残るはずですが、規則的な記録がないということは、古代エジプト人は日食に対して関心がなかったのかもしれません。古代エジプトでは古代バビロニアのように天体の動きで予言を行うことがなかったからでしょう。だから、皆既日食がいつ起こるか予言する能力はあったとして も、それを証明する証拠はありません。(西村)

質問125. スフィンクスは本当になぞなぞを出したのですか? (米吉)

なぞなぞを出すのはギリシア神話に登場するスフィンクスです。このスフィンクスは女性の頭部、獅子の身体、翼を持つ怪物とされています。質問31でも説明したように、スフィンクスはエジプトだけではなく、西はギリシア、キプロス、クレタ島から東はメソポタミアまで見られるモチーフです。しかし、童話ではギーザのスフィンクスが旅人になぞなぞを出していたように描かれている挿絵をよく見かけますね。ギーザのスフィンクスは王の頭部、獅子の身体を持ち、翼を持ちません。そして王権の守護神とされていました。ギリシア神話のスフィンクスとギーザのスフィンクスは本来別の存在ですが、後者があまりにも有名なので、混同されているようです。(西村)

質問126. ヒクソス王アポピの名前は後世のエジプト人が「ヒクソス憎し」の感情から与えた大蛇アポピの名前ですか? (宇井)

大蛇アポピはピラミッド・テクストの中にはまだ登場しません。第一中間期のモアッラのアンクティフィという州侯の墓碑銘に初めて現れます。コフィン・テクストでは太陽神ラーと死者の敵として登場し、アポピの動きを封じ込める魔術や枷(かせ)も言及されます。新王国にはイミドゥアト、門の書、洞穴の書、死者の書、太陽神讃歌に頻繁に現れます。末期王朝にはアポピの書(アポピを滅ぼすための儀式書)まで現れます。カタカナで書き表すと、ヒクソス王も大蛇も同じ名前になってしまいますが、古代エジプト語ではヒクソス王はIppi、大蛇アポピはaAppと書き表されており、綴りが異なります。ヒクソス王アポピと大蛇アポピの名前の上での関連が指摘されたことはありませんが、もしそれが本当なら、興味深いですね。何百年にも亘って邪悪と混沌の大蛇として憎まれ続けることによって永遠の生命を得たヒクソスの王! いいですね。(西村)

質問127. デモティックが最後に使用されたのは452年だというのはどうして分かるのですか? (藤井)

エジプトにキリスト教が伝わったのは紀元後1世紀。その後徐々に民衆の間にキリスト教が普及しましたが、ローマ帝国最後の皇帝テオドシウスがキリスト教を国教とし、391年に異教の神殿を閉鎖させました。このようにしてエジプトの大部分がキリスト教に改宗しましたが、エジプトの神々への信仰は根強く残り、神殿の壁にデモティックで信仰を表現する慣習がしばらく続きました。フィラエ島のイシス神殿にはそのようなグラフィティがたくさん残されており、その中で最も新しいグラフィートが452年に年代づけられています。ちなみに、フィラエ島のイシス神殿が閉鎖されたのは東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの時代で、535〜538年頃です。(西村)

質問128. 古代エジプト語は古王国、中王国、新王国で微妙に文法や言葉が違うようですが、どうして微妙に変化していくのですか? (中尾)

日本語も奈良時代から現代までものすごく変化していますよ。おじいさん、おばあさんの時代の日本語と比べても現在の日本語は変化しています。文法や言葉は何十年、何百年とかけてゆっくりと変化していくので、微妙に変化しているように感じるのでしょう。古代エジプト語の場合、まず発音の変化がサインと単語の表記に現れます。中王国には官吏養成のために、文字を読みやすくするための工夫がされます。たとえば、不完全表記を改め、限定詞や発音補助記号の使用が徹底されます。ヒクソス時代以降、外国語の影響を受けて、文の構造自体が変化したり、外来語を表記する音節書法が考案されたり、外国から輸入されたもの(馬や二輪戦車など)や新しい概念を表すための新しいサインが考案されたりします。その一方で消滅する音(tやrなど)や使われなくなるサインもあります。詳しいことは、古エジプト語、中期エジプト語、新エジプト語の各文法を勉強すれば分かります。(西村)

質問129. 古代エジプトに社会保障制度はありましたか? (横山)

なかったと思います。中王国時代の高官たちの自伝碑文にはしばしば「私は飢えた人にパンを与え、裸の人に衣服を与えた。」とか「私は孤児の父、寡婦の夫だった。」とか書かれていますが、これはあくまでも高官たちに求められた徳行であり、社会保障制度が整っていたことを示すものではありません。社会保障制度のない国では、人々は大家族を築くことによって相互扶助をしていました。家族のいない人は社会的に排除されているも同然で、生きていくことは出来ませんでした。ちなみに、トゥトアンフアメン王の死後王妃アンフエスエンアメンはアイと結婚したという説がありますが、実際には結婚したのではなく、祖父であるアイが孫娘であるアンフエスエンアメンの面倒を見るために引き取ったということだっ たでしょう。(西村)

質問130. 古代エジプトではロバが壷に水を入れて運んだようですが、壷と水の重量がいくらだったかわかるでしょうか? (島崎)

液体の量を示す古代エジプトの単位は幾つか知られていますが、hnwが基本的な単位で0.48リットルです。水を運ぶための壷は何というのか知りませんが、Lexikon der Ägyptologie, Bd. 3, Wiesbaden, 1980, 1199-1209およびThe Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt, vol. 3, Oxford, 2001, pp.493-495によると、次のようなことが分かっています。すなわち、mniと呼ばれるアンフォーラはその20倍(9.6リットル)あるいは30倍(14.4リットル)、inHtと呼ばれるビール樽に相当する壷は50 hnw(24リットル)、msxあるいはmsxtと呼ばれるワインや油の壷は46 hnw(22リットル)、mDqtと呼ばれるビール、蜂蜜、油の壷は38 hnw(18.24リットル)です。古代エジプトのロバはこれらの壷をいくつも背中に載せて運んだのでしょうね。(西村)

質問131. 古代エジプトの馬はとても格好がよいのですが、品種は何でしょうか? (中尾)

おそらく乗用や二輪戦車を引くために使われたアラブ種だと思います。古代エジプトで最古の馬の骨の出土例は、ヌビアのブーヘンの要塞で発見されたもので、年代は紀元前1675年頃(第二中間期初め)です。その馬の肩までの高さは125cmしかなく、アラブ種の平均的な高さ145cmと比べると、かなり小さい馬ということになりますが、骨学的にはアラブ種だそうです。また今までに発見されてきた二輪戦車のくびきの高さから古代エジプトの馬の肩の平均的な高さは135cmであることがわかっています。現代のアラブ種は改良が進んでいるから、同じ品種でも、古代の馬より高いのかもしれません。ちなみに、二輪戦車のくびきにつながれた馬(Htrw)への最初の言及はカーメス王とヒクソスの戦いの記述(カーナーボン・タブレット16)に、二輪戦車隊(tA-nt-Htr)への言及はカーメス王の第二ステラに見られ、馬の最古の描写はトトメス1世時代に見られます。馬の飼育は第18王朝初めまでに始まったと思われますが、戦利品としてあるいは交易でもたらされた馬の方が多かったようです。(西村)

質問132. 古代エジプト語に「一緒に〜しましょう。」という表現はありますか? もしなかったら、それは古代エジプト語が日本語ほど表現が豊かではなかったということですか? (中島)

ありますよ。新エジプト語で書かれた物語中の会話や手紙では動詞iriの叙想法+接尾代名詞一人称複数形すなわちiry.nを使って「(私たちは)〜しましょう。」が表現されています。しかし、あまり見かけないように思うのは、テクストの種類で王の記念碑文や教訓文学、宗教テクストなどでは三人称が多く使われ、しかも王や神、賢人が話す言葉だったりするからでしょう。古代エジプト語の表現が日本語ほど豊かではなかったからではありません。(西村)

質問133. カデシュの戦いでラムセス2世が率いた四師団にはそれぞれラー、アメン、プタハ、セトの名前がつけられていますが、どうして戦いの神ではないプタハの名前が付けられたのでしょうか? (中尾)


何がゼウスfamuosた

ラムセス2世が率いた軍隊は4つの師団から成りました。師団を表す古代エジプト語は一般に「軍隊」と訳されているメシャー(mSa)です。ちなみに「師団」とは陸軍の部隊の一つで、独立した作戦行動のとれる最大の固定編成部隊だそうです。ラムセス2世は各師団にエジプトの四柱の国家神の名前をつけました。すなわち、ラー、アメン、プタハ、セトです。この中でプタハ神は戦いの神ではないのに、なぜ師団名に付けられたのかについては、新王国におけるメンフィスの行政上・経済上の重要性からメンフィスの主神であるプタハ神の地位が飛躍的に向上したからであろうと思います。その背景には西アジアとの関係がまず軍事遠征で、ついで国際政治と活発な交易で重要になってきたということがあります。メンフィスにはトトメス1世以来王宮と王領地があり、王子たちはそこで成長しました。ギーザの大スフィンクスがラー・ホルアフティー神と して信仰されたことは有名ですが、プタハ神も原初の神、創造神として厚く信仰されました。メンフィスのプタハ神殿は新王国を通じて増改築され、カルナックのアメン神殿境内にもプタハ神殿が造られました。セティ1世葬祭神殿保護勅令の冒頭部では、セティ1世がメンフィスにいて、アメン神、ラー神、プタハ神のために儀式を行っていたと述べられています。つまり、ラムセス2世が即位するずっと前から、プタハ神はとても重要な神だったのです。だから、他の国家神たちとともにプタハ神の名前が師団名に採用されることは不思議でも何でもありません。(西村)

質問134. 古代エジプトでは魚がミイラにされることは多かったのですか? (鈴木)

紀元前700年以降聖獣をミイラにする風習が流行しますが、魚のミイラはギリシア・ローマ時代に大量に作られ、祈願成就のために神様に捧げられました。特に有名なのがエスナのネイト女神の聖獣であるナイルパーチのミイラと、同じくエスナでネイト女神と同一視されたハトホル女神の聖獣であるドルフィンモルミルスのミイラです。アトゥム神の聖獣であるウナギのミイラもよく知られていますね。また、日本でイズミダイやチカダイと呼ばれるティラピア・ニロティカは、夜の航行の間太陽神ラーを守護し、同様に死者たちも守護すると考えられました。そのため、ティラピア・ニロティカがミイラにされて墓の中に置かれる時、それは死者に繁殖力や甦りをもたらすものでした。古代エジプトでよく知られている他の魚については「エジプトの魚」をご覧下さい。(西村)

質問135. 古代エジプトの先王朝時代のパレットで、イルカを象ったものがルーヴル美術館にあるのですが、穴が3つあいているのはなぜですか? パレットは化粧道具ではないのですか? (宇井)

パレットの中でも物の形(アンテロープ、アイベックス、カバ、ゾウ、カメ、鳥、魚)をしたものは護符の一種で、病気治癒を願って、首からぶら下げられました。穴があいているのはそのためです。パレットには、アイシャドーの粉をすりつぶすためのパレット、病気治癒のための護符、神殿奉納用のパレット(人の姿の王、雄牛やライオンなど動物の姿をした王、空想上の動物などが描写されている)の3種類があります。だから、パレットはすべて化粧用とは限らないのです。(西村)

質問136. 古代エジプトでは中王国時代まで反乱があまり起こりませんが、その理由は何ですか? 中央集権が強く働いていたとか、反乱を起こさせない継承方法があったとかでしょうか? (廣田)

第3王朝までは文字史料が極めて少ないことから、王の交替時、王朝の交替時に反乱が起こったのかどうかは不明です。第4〜第6王朝については、文字史料は増えてきますが、それでも代々の王たちの血縁関係に不明な点が多いです。というのは、「王の妻」「王の息子」「王の母」などの称号は記されていても、肝心の王の名前が記されていないからです。

また古代エジプト人は宗教儀式やナイル河の水位などは毎年きちんと記録して、パレルモ・ストーンと呼ばれる年代記に彫りましたが、内政上の記録は残してくれなかったので、王位継承時や王朝交替時に反乱があったのかどうかは不明です。短期間しか統治しなかった王はエジプト学者たちによってしばしば王位簒奪者と呼ばれますが、実際にそうだったかどうかは不明です。

第12王朝からは王が息子を共同統治者に指名することによって王位継承をスムーズにさせるという方法がとられました。また地方の豪族たちが官職を世襲するのを禁じたことも王権の強化に大きく貢献しました。というのは、官職の世襲を禁じると、豪族たちは私有財産の蓄積ができないので、王のように軍隊を持つことも大規模な建設事業をすることもできなくなったからです。その他には、官職の職務内容が細分化され、一人の官僚が大きな権限を持てないようにするなどの行政改革がありましたね。

古王国時代の空位期間はなさそうなので、スムーズに王位継承されていたように見えますが、考えてみれば、第12王朝の王たちがこのような政策をとったのも、古王国時代にしばしば王権の安定を脅かすような出来事があったからかもしれませんね。(西村)

質問137. 古代エジプト第11王朝のメンチュヘテプ2世以降即位名に太陽神ラーの名前が組み込まれますが、これは当時のラー神を崇拝する勢力を懐柔するためでしょうか? それとも他に何か理由があるのでしょうか? (廣田)

太陽神ラーは古王国の間にヘリオポリスのアトゥム神を吸収して創造神となり、古代エジプトの最高神となっていました。そのためテーベの地方神で、テーベ州の主神メンチュ神よりも格下だったアメン神が最高神となるには、創造神としての地位を手に入れなければなりませんでした。そこで、太陽神ラーと習合して、神々の王アメン・ラー神が神学的に誕生させられるのです。かくしてテーベは南のヘリオポリスとなり、上エジプトで最も重要な宗教都市になりました。一地方都市に過ぎなかったテーベを宗教上ヘリオポリスに次ぐ第二の都市として昇格させることは、テーベ出身の王たちのステイタスを急激に高めたでしょう。成り上がりの田舎者というイメージのままでは、統一国家を統治することは無理ですからね。というわけで、即位名にもラーが組み込まれたのです。(西村)

質問138. ヒクソスの王たちは名前にラーを入れていますが、ヒクソス地元の宗教を布教することはなかったのでしょうか?  (廣田)

ヒクソスはエジプトの文化や宗教にかなり馴染んでいた人々のように思われます。東地中海沿岸や南パレスティナにはエジプト人も交易や鉱物の採掘などでよく出掛けていたし、その地域の人々も以前からエジプトへやってきていたので、エジプト人との接触の過程でエジプトの文化や宗教も受け入れていたのでしょう。だから、彼らが自分たちの故郷の神々とともにエジプトの神々を信仰することにおそらく抵抗はなかったでしょう。エジプトの王がラー神の名前を組み込んだ即位名を持つこともよく知っていて、ヒクソスの支配者たちは自分の即位名にも同様にラー神の名前を組み込んだのだと思います。でもヒクソスが主に信仰していたのはバアル神と共通点の多いセト神ですよね。(西村)

質問139. 第17王朝のテーベ政権はヒクソスを攻める時、当初ヒクソスが持っていたアジアから輸入した装備を持っていたのでしょうか? それとも古い装備で立ち向かったのでしょうか? その場合ヒクソスを追い払うことの出来た要因は何なのでしょうか? (廣田)

第17王朝は西アジアとの交易もヌビア及び南方諸国との交易も出来なかったので、かなり物質文化が落ち込んでいます。初めてヒクソスに戦いを挑んだときも十分な装備は出来ていなかったはずです。戦車や馬は持っていなかったでしょう。古い装備で小規模な部隊で戦闘に臨んだはずです。しかし、ヒクソスと何度か戦っているうちに、馬や戦車のすぐれた点に気づき、なんとか手に入れようとしたでしょう。実際いくらか手に入れることに成功したら、真似をして、戦車を作ったでしょう。戦車を作る技術を持つ職人も拉致したあるいは雇ったでしょう。馬はすでに調教されたものを奪ってきたと思われます。

ヒクソスを追い払うことが出来た要因は、戦闘を通じて王の側近たちから一兵卒までエジプト人としての誇りを取り戻したからではないでしょうか? かつてのようにエジプトの名声を西アジアやヌビアにとどろかせたい、西アジアやヌビア・南方諸国との交易ルートを押さえて再び強くて豊かな国になりたいという強い思いがあったからでしょう。(西村)

質問140. 古代エジプトは新王国になると王墓としてのピラミッドを造るのを止めますが、ミイラ作りを止めなかったのはなぜでしょうか? 復活の際に必要だという信仰は続いていたのでしょうか? それともあまり意味がなくなったけど、慣習として続いていただけなのでしょうか? (廣田)

第18王朝トトメス1世からは王たちは王家の谷に岩窟墓を造営するようになりました。王家の谷にそびえている山エル・クルンがピラミッドの代わりになり、岩窟墓が復活の場となりました。新王国になってもミイラは王の復活に必要なものでした。カーとバーがミイラの体内に戻った時、死者はアクと呼ばれる霊的存在になり、神々のように永遠に生きることが出来ると考えられたからです。だから、王も王以外の裕福な人々も死ぬとミイラにされたのです。(西村)

質問141. イアフメス1世が即位してからの10年間はヒクソスとの境界はどうなっていたのでしょうか? クサエのままだったのでしょうか? (廣田)

カーメス王の死からイアフメス王がヒクソスへの攻撃を再開するまでの10年間については、史料がないので、何も知られていません。たぶんクサエのあるキノポリス州より北へ境界が移動することはなかったのではないでしょうか? イアフメス王がアヴァリス攻略に成功したことでさえ、1993年にスティーヴン・ハーヴィーによってアビュドスで王の葬祭神殿の戦闘レリーフの断片を発見するまで、知られていませんでした。ちなみにイアフメス王のテンペスト・ステラはヒクソスの支配を悪天候にたとえ、暗にヒクソスに対する勝利を述べていると言われています。(西村)

質問142. ハトシェプスト女王が政治に口出ししていた間、宮廷内の雰囲気はどうだったのでしょうか? 家臣たちは端から夫婦喧嘩、親子喧嘩を傍観していただけなのでしょうか? (廣田)


ハトシェプスト女王とトトメス3世との関係については、昔から注目されてきましたが、女王とトトメス2世の関係については全然聞いたことがないですね。女王の方が圧倒的に強くて、トトメス2世は政治の主導権を握れなかったのかもしれません。女王がトトメス2世の死後彼のためにエレファンティネにセド祭のコートを着たトトメス2世の彫像を寄進したこと以外、トトメス2世への言及が少ないですね。お父さんのトトメス1世のためには自分の葬祭殿の中に供養室を作り、自分の墓へ再埋葬させたりしていますけど。正妃の子供の方が妾妃の子供より立場が上だったというだけではなく、イアフメス・ネフェレトイリ以来のアメン神妻の権力の強さも影響していますね。女王にはセネンムート以外にも有力な家臣がたくさんついていましたし� �。

それでもトトメス3世が成人すると、いつまでも女王が政治の主導権を握っているのはいかがなものかという雰囲気が生じたかも知れません。トトメス3世が女王のレリーフとカルトゥーシュを削り取らせたのは、自分の記念碑に注目させるためだったでしょう。女王は自分を男性のファラオのように描写させていて、トトメス3世とよく似ていたので、削り取られると、一見区別がつかないですね。また息子のアメンヘテプ2世の即位の際にあるいはアメンヘテプ2世の息子が即位する際に、王族の女性が王位継承権を主張して、政治に混乱が生じないように、王位は代々男性の王族が継承するということを家臣たちに知らしめる意図があったとも考えられています。

単なる夫婦喧嘩、親子喧嘩のレベルではないですね。(西村)

質問143. トトメス3世はサトイアフを妻に迎えた後、メリトラー・ハトシェプストを迎えていますが、重婚なのでしょうか? それとも別れたのでしょうか? (廣田)

トトメス3世の墓の柱の絵にトトメス3世がイシス女神と同一視された樹木から乳を飲んでいる場面があります。彼の後ろにはトトメス3世(声正しき者)、王の妻メリトラー(生きますように)、王の妻サトイアフ(声正しき者)、王の妻ネブトゥ。王の娘ネフェレトイリー(声正しき者)が右から左へ並んでいます。声正しき者と呼ばれている人々はすでに亡くなった方々です。つまり、トトメス3世が亡くなった時には、妻のサトイアフも娘のネフェレトイリーも亡くなっていて、二番目の正妃メリトラーと妾妃ネブトゥだけが生き残っていたことが分かります。従って、重婚でも離別でもなく、死別したのでメリトラー・ハトシェプストを新たな正妃として迎えたということになります。(西村)

質問144. 新王国の王たちとアメン神官団の確執において、具体的にアメン神官団のどのような行動が気に入らなかったのでしょうか? ただ王の権力を凌ぐ規模の大きさに妬んだのでしょうか? (廣田)

トトメス3世が西アジアに17回遠征し、その都度大量の戦利品を持ち帰ったことが、カルナック神殿の年代記から知られています。戦利品の中からアメン神のための儀式で必要なものが寄進されました。また西アジアとヌビアではカルナックのアメン神殿のための神殿領がいくつも経営されたでしょう。それらの神殿領からは大量の農作物が神殿に納入されたはずです。神官たちはとても裕福になったでしょう。祖先の王たちの出身地の守護神であるということでアメン神はとても大事にされましたが、神官たちは同時に国の重要な官職にも就いていましたので、アメン神官団の発言力は大きかったでしょう。アメンヘテプ2世がギザの大スフィンクスをヘリオポリスの太陽神ラーと結びつけたり、トトメス4世が自分の母と妻たちを� ��神たちと結びつけたりしたのは、権力のバランスを取るためだったかもしれません。具体的にアメン神官団のどのような行動が王たちの気に入らなかったのかについては残念ながら分かりません。(西村)

質問145. ハトシェプスト女王の娘ネフェルーラーはトトメス3世と結婚したでしょうか? (足立)

ネフェルーラーは王の正妃が持つ最も重要な称号「偉大な王の妻(ヘメト・ネスート・ウレト)」を保有していませんでした。しかし、「王の娘(サト・ネスート)」「二国の女主人(ネベト・ターウィ)」「上・下エジプトの女性支配者(ヘヌート・シェマーウ・メフー)」「アメン神妻(ヘメト・ネチェル・(ネト・)アメン)」の称号は保有しています。「王の娘」の称号の保有は、彼女がハトシェプストとトトメス2世の娘だったので、当然でしょう。「アメン神妻」の称号はハトシェプストが即位してから保有しました。「二国の女主人」と「上・下エジプトの女性支配者」も王の正妃が持つ称号です。ネフェルーラーは王の正妃が持つ称号を三つ持つにもかかわらず、「偉大な王の妻」の称号を持っていないため、トトメス3世との結婚� ��否定されてきました。

それでは、トトメス3世と結婚していないにもかかわらず、どうしてネフェルーラーは王の正妃が持つ称号を持っているのでしょうか? この疑問については、次のように考えられています。ハトシェプストが王として即位することによって、王妃の宗教的・儀式的役割を果たす者がいなくなってしまったので、娘のネフェルーラーがその役割を果たすことになった、そのため「二国の女主人」「上・下エジプトの女性支配者」「アメン神妻」の称号を保有するけれども、結婚はしていないので「偉大な王の妻」の称号は保有しなかった、ということです。トトメス3世が単独統治者になると、記念碑上のネフェルーラーの名前はトトメス3世の正妃サトイアフの名前に彫り直されました。やがて、ネフェルーラーの記憶もハトシェプ� �ト女王の記憶とともに消されました。ただし、この名前の彫り直しが、トトメス3世が幼少の頃、サトイアフと結婚する以前にネフェルーラーと結婚していた証拠だという学者もいます。

ジョイス・ティルディスレイ著『古代エジプト女王・王妃歴代誌』(創元社、2008年)、124-5頁をご覧下さい。Aidan Dodson and Dyan Hilton, The Complete Royal Families of Ancient Egypt,Thames and Hudson, London, 2004, p. 132もご覧下さい。(西村)

質問146. メルエンプタハ王は決して財政的に不自由していたとは考えにくいのですが、なぜ自分の葬祭神殿を建設する時に、アメンヘテプ3世の葬祭神殿を壊して、その石材を再利用したのでしょうか? 単に手近なところにあったからなのでしょうか? (廣田)

古代エジプトでは、財政的に不自由していなくても、採石場で新たに石を切り出して、成形し、建設現場まで運んでくるのは、何年もかかる困難な作業なので、手近な建築物を解体して、その石材を再利用することが古王国から日常的に行われていました。泥レンガの建築物の場合も古い建築物の泥レンガが再利用されていたそうです。というのは、泥レンガを作るのには想像以上に大量の水と土が必要だからです。それにしても、アメンヘテプ3世の葬祭神殿がどれだけ壮麗な建築物だったかを想像すると、解体されてしまったのは残念ですね。(西村)

質問147. ヒエログリフで記録されている中で、古代エジプトの気象に関わる記述というものはありますか? (三橋)

古代エジプト人はナイル川の水位は毎年記録していましたが、日々の天気の記録は残しませんでした。晴れの日が圧倒的に多かったから、わざわざ記録する必要がなかったのでしょうか? 

古代エジプトの記録から知られている有名な異例の気象としては、以下のような例があります。(1) 第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の治世2年増水季第二月23日(紀元前1994年9月初め)には、ワーディー・ハンマーマートで王の石棺と彫像のための石材(硬砂岩)を採掘中に、東方砂漠の神ミン神の力で、滝のような雨が降って、周辺の山岳地が湖のようになったと岩壁に彫られた碑文に記されています。(2) 第18王朝初代の王イアフメス1世が残したテンペスト・ステラで、そこには激怒したアメン神によって上エジプトに暴風雨が起こり、テーベ地域中の墓や神殿が破壊されたので、王がそれらをすべて再建したことが述べられています。日付は記されていませんが、紀元前1,550〜1,525年の間の出来事だったと思われます。年代は食い違いますが、この暴風雨をサントリーニ島の火山の噴火による異常気象と見る人もあれば、これはヒクソスの支配を暴風雨に例え、墓や神殿の再建はヒクソスに対する勝利を指しているのだという解釈をする人もいます。(3) 第19王朝第二代ラムセス2世が治世34年(紀元前1245年)のヒッタイトの王女との結婚を記したステラには、王女の一行がシリアを通過する時、雨や雪に難儀しないように、嵐の神セト神にたくさん供物を捧げたところ、空は穏やかになり、冬なのに夏の暑い日々になったと記されています。(4) 第25王朝第四代タハルカ王の治世6年(紀元前684年)にタニスに建立された石碑(JE37488)には、古代において最高のナイル川の水位とアメン・ラー神によって保証された大豊作について言及されています。

碑文からすぐ思いつく例は以上ですが、考古学上の証拠からも古代エジプトの気象についてもっと知ることができるかもしれませんね。(西村)

質問148. ファイアンス製のカバの像は何のために使われたのですか? (笹)

冥界ではカバはセト神と関連がありました。セト神は冥界の王オシリス神を殺した神です。息子のホルス神は敵討ちのためにカバに変身したセト神を銛で打ちます。多くの神殿の壁には小舟に乗ったホルス神が水中のカバを銛で打つ場面が彫られています。カバ狩りはホルス神の化身である王の重要な役目でした。古王国・新王国の官吏達の墓壁にもカバ狩りの場面が彫られています。しかし、中王国の官吏達の墓壁にはそのような場面はありませんでした。カバの像は墓壁画のない小さな墓あるいは埋葬室でしか発見されてきませんでした。それゆえブリオー氏はカバの像がカバ狩りの場面の代用かもしれないと示唆しています。(Janine Bourriau, Pharaohs and Mortals : Egyptian Art in the Middle Kingdom. Exhibition Catalogue. Cambridge, 1988, p. 120. ) 記録が残された発掘で発見されたカバの像はミイラの背中か足元に置かれました。これは故人がカバの脅威に打ち勝つための工夫であると思われます。

しかし、古代エジプト人はまたカバを原初の海に身を沈めている生き物とみなしていたので、カバの像は故人が来世で再生するのを助ける道具だったかもしれません。ただし、たいていのカバの像は、儀式的にカバを無力にするためであるかのように、脚部を故意に壊されていたので、前者の説の方が有利であるように思われます。ファイアンス製のカバの像は中王国にしか作られなかったので、その葬祭上の役割もまたすぐに廃れたことが分かります。(西村)

続く(To be continued)

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