アメリカ独立戦争における女性達(アメリカどくりつせんそうにおけるじょせいたち、英:Women in the American Revolution)では、アメリカ独立戦争中とその前後で、様々な立場に置かれた女性達がどのように行動し、またその立場がどう変わっていったかについて述べる。
独立戦争の頃、政治と戦争に参加するのは男性に限られていた。しかし、女性がいなければ政治も戦争も動かなかったことも事実である。積極的に戦争の遂行に協力した女性の中には歴史に名を留めた者もいる。8年間にも及ぶ戦争とその前後の激動の時代を生き抜くためには多くの試練に耐え、また生活様式を変えていくことを女性達に強要した。新生したアメリカ合衆国の中で、女性の姿がすこしずつ社会の表に現れ始めた時代とも考えられる。
[編集] アングロサクソン系のアメリカ人で愛国者の女性
アメリカ独立戦争は、戦うのは自分達だと考えていた男達によって遂行されたものと認識されている。しかし、この戦争は広く伝えられた主義信条がなければ続けられなかったのと同様に、アメリカ植民地中の男性と女性両方の住人によって物質的に支えられなければ遂行できなかった。公の政治の場面には女性が登場しないが、女性が戦争に直面し、戦争が政治や公衆・家庭内の生活のあらゆる面で浸透してくるに連れて、通常の家庭の振る舞いが政治的に重要な意味合いを持つようになった。
女性が自発的に愛国者であったかどうかという質問を戦争は投げかけるが、政治的な同一性を維持しつつ、植民地の女性達が態度で表してみせた。伝統的な女性の職業による支援がこのことをよく表した。戦場で起こったことは既に家庭でも、国内の経済でも、また夫や父親の実業の世界で受け入れられていたことだった。女性達はイギリス製品のボイコットに参加し、兵士のための物資を生産し、イギリス軍の情報収集活動をやり、軍隊と行動を共にして兵士達のために洗濯や料理を行い、極秘の伝令となり、時には男性に扮して戦場で戦った。
[編集] 国内の支援
独立戦争の当時、女性は家庭内の諸事を遣り繰りする責任があった。このことに関連して女性はホームスパン運動で働いた(ホームスパンは手織りの布)。輸入されたイギリス製の衣服を着たり購入する代わりに、愛国者の女性達は長く伝統のある機織りや紡績をやって自分達の衣類を家族の衣類に作り替えた。独立戦争の前の数年間における事態の推移により、この行動は政治的な意味合いを与えられた。糸を紡ぎ機を織られた「アメリカ製の」衣類は反抗の中の一機構となり、消費についても同じような行動となった。1769年、クリストファー・ギャスデンは植民地の女性達に直接呼びかけた「この危機に及んで我々の政治が動いていくかは、緊縮財政に係っており、それをなすためには女性達が主となって礼節とともに遣り繰りして いくかに掛かっている。(サウスカロライナの農園主、機械工、不動産の自由保有権者に。イギリス製品の輸入を閉ざせ。1769年6月22日)。イギリス製織物のボイコットに加えてホームスパン運動は大陸軍が必要とする衣類や毛布を生産することで貢献した。男性の製造業者はそのような製品と交換に徴兵を免れていたが、同じことをやる女性にはそのような代償も無かった。紡績、機織り、縫製は植民地の女性達の一部の仕事になった。愛国者としてその技能を使い独立戦争に荷担したことになった。
国内経済が沈滞する中で、主婦はその購買力を使って愛国者側の製造者を支援した。女性はイギリス製品を家庭用に購入することを拒絶した。例えば紅茶のボイコットは自分やその家庭が愛国者の立場に立っていることを表明する比較的やさしい方法であった。1773年のボストン茶会事件はボイコットの表れとして最も広く認識されているが、この爆発的な行動の何年も前に愛国者の女性達が政治的声明としてまさにそのイギリス製品の消費を拒んでいたことは重要である。同様なボイコットは様々なイギリス製品に広がり、女性達は購入する代わりにアメリカ製品を作り出す道を選んだ。この「非消費ボイコット」が国家的政策によっていた(作ったのは男性)としても、女性はその支配する家庭の中で実行に移したのである。
女性達は経済活動にも積極的に関わった。1778年、一団の女性が、コーヒーを貯蔵しているという商人の噂に接してその倉庫に乗り込んだ。女性達はは倉庫を開放し、コーヒーを取り出して「没収」した。
独立戦争中、アメリカ製品を買うことは愛国者であるという姿勢を見せることであった。加えて倹約(独立戦争前は賞賛される女性の美徳)は政治声明となり、家事の切り盛りで戦時体制に貢献するよう求められた。しかし、戦時体制を維持するための女性達に対する要求は家庭内経済による貢献を超えるものになった。女性達はその家屋そのものを公衆の益のために差し出すことを求められ、共和制が形を取るにつれて大陸軍の兵士や役人の宿舎にも提供された。
女性達はフィラデルフィア婦人協会のような組織を通じても愛国者側に貢献した。この組織は戦時体制に貢献する女性の能力を組織として活用したものである。フィラデルフィアの女性達は資金を集めて戦費の助けとした。これはマーサ・ワシントンが受け取って、その夫ジョージ・ワシントン将軍に渡された。他の植民地でもこの例に倣い、エスター・デバート・リード(ペンシルベニア知事の妻)やサラ・フランクリン・バッチ(ベンジャミン・フランクリンの娘)が起案者となった。1780年、戦争も半ばの頃、植民地から上がった女性組織によって集められた資金は34万ドル以上にもなった。
[編集] 愛国者の女性と前線
多くの愛国者女性は自分の家で植民地軍を支える活動を行ったが、戦争の最前線にいて厳しい現実に直面した女性もいた。戦闘が家産に近づくにつれて、それを守ろうと奮闘する女性達は暴力の脅威に直面することになった。敵の軍隊による陵辱は常に可能性があり、一人で家を守る女性には恐怖の根源であった。イギリス軍の略奪者から守るために武器と度胸を備えなければならない女性もいた。
周りに男性がいない家に留まることを拒む女性がいれば、夫の留守中に経済的にやっていけない女性もいた。このような女性達は大陸軍に付いていき、将兵達の洗濯女、料理人、看護婦、裁縫師、性の相手、清掃人などをこなし、時には兵士あるいはスパイとなった。軍隊についていく女性達は、指揮官達によって「必要な厄介者」とか「お荷物」と呼ばれた。それでもこれらの女性達は軍宿営地の運営を円滑にする役割を果たした。売春婦もいたが、性病の蔓延を恐れた軍の指導者にとっては迷惑な存在であった。
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最初に多少躊躇いがあったヘンリー八世も最終的には彼女の姦通を信じたのではないかという記事を読んだ事があります。
2008/9/8(月) 午前 7:46 [ fminorop34 ]