2012年4月14日土曜日

東方問題とロシア


東方問題とロシア

◎ロシアって、どうしていつも独裁政治なんですか?

ロシアはかつて、モスクワの周囲を持つだけの小さな国でした。それが数百年かけてウクライナ、リトアニア、ポーランドなど周辺民族を次々に併合し、19世紀には世界最大の領土を持つ帝国になりました。その結果、ロシア帝国における少数民族の割合は、人口の50%に達していました。このような国で、西欧型の民主主義、議会政治を採用したらどうなるか。国会議員の半数が少数民族となり、彼らがいっせいに独立を要求すれば、帝国は瞬時に崩壊するでしょう。

 

ロシアにおいて、民主主義は不可能なのです。帝国を維持するためには専制しかありません。また、少数民族の独立運動は、例外なしに弾圧しなければなりません。これが、ロマノフ家の基本政策です。

 

ナポレオンの侵略軍を撃退したロシア軍の青年将校たちは、占領したフランスで自由・平等の思想に目覚め、デカブリストという秘密結社をつくりました。憲法制定と農奴制廃止を掲げ、1925年の12月、ニコライ1世の即位の際に武装蜂起します。デカブリスト(十二月党)の反乱と呼ばれるこの蜂起は失敗に終わり、首謀者は処刑され、残りはシベリア送りになりました。

 

新帝ニコライ1世は、1830年(七月革命と同年)のポーランド反乱に際しても徹底的な弾圧を行いました。このとき、1万人のポーランド人がフランスなどへ亡命し、その中には作曲家でピアニストのショパンもいました。彼はポーランド独立運動をたたえる曲をたくさん作り、愛国者として尊敬されています。

 

48年革命(諸国民の春)のときは、ロシア政府によって未然に独立運動家が逮捕され、大きな運動にはなりませんでした。ロシアは、オーストリア帝国内の民族運動弾圧にも協力し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられました。

 

19世紀最後のポーランド反乱となるのは、63年の1月蜂起です。農奴解放令を出したアレクサンドル2世(あとで説明します)のロシア政府が妥協するだろうという甘い見通しは、すぐに裏切られました。再び激しい弾圧を受け、ポーランド語の禁止など、ポーランド文化の抹殺政策が実行されます。

 

カトリック教徒でラテン文字を使うポーランドに、正教徒のロシア人がキリル文字を強制して、反発を招いたのです。物理学者マリー=キュリー(キュリー夫人)は、少女時代の思い出を語っています。小学校ではポーランド語は禁止され、ロシア語を教えることになっていました。でも学校の先生は、ひそかにポーランド語の授業を続け、ロシア人の役人が来る日だけ、ロシア語で授業をする。そうやって、民族の文化を守ったのです。

 

◎少数民族をいじめるロシアが、どうしてバルカン半島の民族運動を支援するんですか?

飛行機のない時代、海外の植民地との貿易は、すべて船で行っていました。大西洋に面したイギリスやオランダが、植民地帝国を築いたのは偶然ではありません。ロシアがいつまでも後進国だったのは、港に恵まれなかったのが最大の原因です。

 


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19世紀前半、ロシアが利用できた海は、バルト海、黒海、オホーツク海の3つです。バルト海とオホーツク海は、冬の間ガチガチに凍りつき、船は出港できません。黒海は凍りませんが、唯一の出口であるボスフォラス海峡は、オスマン帝国の首都イスタンブルの玄関口にあたり、自由な航行はできません。ですから、バルカン半島を通って地中海へ出るか、清朝の沿海州を通って日本海へ出るしか方法がないのです。

 

不凍港を求めて南下する!」 これがロシアの基本政策です。そのために、バルカン半島からオスマン帝国を追い払う。オスマン帝国の支配下にあるギリシア正教徒、スラヴ系民族の民族独立運動を支援する、ということになります。

 

◎自分勝手な国ね! でもキリスト教徒を応援するなら、イギリスやフランスも賛成?

いいえ。地中海⇒エジプト⇒インドという貿易ルートの安全を死守したいイギリスと、そのライバルのフランスにとって、地中海にロシアの軍艦がうろちょろされては困るのです。その一方で、エジプトをオスマン帝国から切り離して支配下におきたいという欲望をもっています。

 

また、多民族国家のオーストリア帝国にとって、バルカン半島の民族独立運動は、自国に飛び火してくる恐れがあるので絶対に認められません。こういうわけで、オスマン帝国の領土をめぐって、露・英・仏・墺などの利害が対立したことを、東方問題というのです。これが原因で、19世紀には大きな戦争が4回起こりました。順番に説明します。

 

@ ギリシア独立戦争(1821〜)

「民衆を導く自由の女神」で有名なフランス・ロマン派の画家ドラクロワの、もうひとつの代表作が、この「キオス島の虐殺」です。エーゲ海の小島、キオス島で起こった事件を聞いた画家が、想像で描いたものです。テレビのない時代、こういう作品が、人々に訴えかける力には大きなものがありました。古代ギリシアの芸術や哲学に親しんだ西欧の人々は、「異教徒オスマン帝国の圧制に苦しむギリシアを救え!」と義勇兵を組織し、イギリス・ロマン派の詩人バイロンも、義勇兵に志願して、ギリシアで病死しています。

 

民衆に広がるギリシア=ブームとは別に、英・仏政府は冷徹に計算していました。ギリシア独立戦争を支援してオスマン帝国から独立させ、親西欧政権を立てれば、インド=ルートの防衛に役立つ。ロシアは例によって、混乱に乗じてバルカン半島を支配下におくことを考えます。こうして、英・仏・露の3国が、ギリシアを支援しました。1831年のロンドン会議でギリシアは正式に独立を認められます。しかしギリシアの独立だけでは、ロシアの南下政策は実現できません。

 

A    エジプト・トルコ戦争(1831〜)

ギリシア独立を横目で見ながら、「オレも…」と考えたのが、エジプト総督ムハンマド=アリー。彼はオスマン帝国の地方長官でありながら帝国を裏切り、エジプト独立を図ります。英・仏はこれに飛びつき、エジプト独立を支援します。一方ロシアは、エジプト側につけばギリシアのときと同じ結果になると考え、あえてオスマン側につきます。その見返りとして…

 

◎オスマンに領土を要求する?


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いいえ。もっと簡単なことです。黒海と地中海を結ぶ2つの海峡、イスタンブルに面したボスフォラス海峡と、その南のダーダネルス海峡、この海峡通航権をロシアは要求したのです。海峡を自由に通れるなら、わざわざバルカン半島を占領する必要もないでしょう。

 

オスマン帝国がこれを認めてしまった(ウンキャル=スケレッシ条約)ので、さあたいへん。イギリスが即座に反応します。これ以上、オスマンをいじめると、オスマンはますますロシアの言いなりになる。それを阻止するためには…

 

◎いじめるのをやめる。オスマン側につく!?

そう! イギリスはオスマン側に寝返るのです。条件はもちろん、「ロシアとの条約を破棄しろ!」ですね。オスマン帝国から見れば、世界最大の海軍国家イギリスのほうが頼りになるので、こっちの言い分を聞くわけです。ロシアは再び黒海に封じ込められました。

 

◎これって、エジプトから見れば、イギリスの裏切りね。

そうなんです。おかげで戦争は引き分け。エジプトの完全独立はお預けになり、ムハンマド=アリー家のエジプト総督世襲だけ認める、という中途半端な結果に。エジプトはイギリスを信用しなくなり、フランスべったりになります。あとでフランスにスエズ運河建設権を与えるのは、こういうわけ。

 

B クリミア戦争(1853〜)

クリミア半島っていうのは、黒海に突き出た菱形の半島。ここが戦場になってロシアが大敗したのがこの戦争です。ロシア皇帝にコライ世は、ギリシア独立、エジプト・トルコ戦争に介入したのに、英・仏の妨害でほとんど何も得られず、苛立ちを強めていました。このころ、フランスでナポレオン3世が即位し、聖地管理権問題で露・仏関係が極度に悪化します。

 

◎聖地管理権問題って何ですか?

キリスト教の聖地イェルサレムをどの国が管理するかという問題です。中世にはこの街をめぐって十字軍が起こったように、非常にデリケートな問題です。イスラム国家オスマン帝国もこの問題には気を使い、伝統的に友好関係にあったフランス・ブルボン家に管理権を預けていました。ところが、フランス革命が勃発。啓蒙思想の革命政権は、「聖地なんかいらない!」とポイ捨て。これを拾ったのが、正教会のロシア帝国でした。

 

ところが半世紀後、フランス皇帝に即位したナポレオン3世は、カトリック教会の守護者を気取り、「やっぱり聖地を返せ!」とゴネてきたのです。オスマン帝国はこれを丸のみ。メンツをつぶされたロシアがオスマンに攻め込んだのが、クリミア戦争の始まりです。

 

オスマン帝国の敗北は、即、ロシアの南下を意味します。英・仏に伊のサルデーニャ王国も加わった西欧連合軍がオスマンを支援。英仏連合艦隊が、海峡を通過して黒海に侵入。ロシア黒海艦隊の基地であるクリミア半島のセヴァストーポリ要塞を包囲し、激戦の末、陥落させます。

 


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この戦争は、ナポレオン戦争以来の大戦争になり、クリミア半島だけで数万の犠牲者が出ました。負傷者が担ぎこまれたイスタンブルの病院で、活躍したのがイギリス人看護婦ナイチンゲール。彼女の活動は、スイス人アンリ=デュナンに受け継がれ、「敵味方の区別なく負傷者を救う」という国際赤十字の設立につながりました。この戦争にロシア軍の一兵士として参加した作家トルストイは、『セヴァストーポリ物語』を著し、のちに反戦作家として日露戦争に反対します。

 

ナポレオン3世にとって、このときが得意の絶頂でした。伯父ナポレオン1世が勝てなかったロシアに圧勝したのです。パリ条約(1856)で決まったことは、黒海の中立化、すなわちロシア黒海艦隊の禁止でした。南下どころか、逆に後退させられたのです。ロシアにとっては、建国以来、はじめての大敗北でした。皇帝ニコライ1世は急死(自殺説あり)、息子アレクサンドル2世が即位します。

 

◎ナポレオン戦争で勝てたロシアが、どうしてクリミア戦争では負けちゃったんですか?

 

鉄道を敷いて列車で移動する英・仏軍に、馬車で移動するロシア軍が敗れ、蒸気船を持つ英・仏艦隊に、帆船しか持たないロシア艦隊が敗れたのです。近代化の遅れが、敗北の原因であることは明白でした。若い皇帝は決意します。

「産業革命を起こす。ロシア海軍も蒸気船を持つ!」

 

ロシアで産業革命が起こらなかったのはなぜか? 農奴制のためです。イギリス産業革命が成功したのは、農村で囲い込みが進み、失地農民が都市に流れ込んで工場労働者になったためでしたね。ロシアの農奴は、土地と一緒に売り買いされ、強制労働(賦役)させられ、移動の自由はありません。これでは永久にロシアは近代化できない…と考えたアレクサンドル2世は、農奴解放令(1861)を発布しました。

 

農奴解放令のポイントは、農民に土地代金を支払わせること(封建的特権の有償廃止)、土地の所有権は個々の農民ではなく、村落共同体(ミール)が持つようになること、この2点です。

ミールというのはロシアの伝統的な「村」のことです。個々の農家があまりに貧しいので、村全体で連帯責任にして土地代金を支払わせるのです。土地が欲しければ村に残って土地代金を支払え、それがいやなら土地はあきらめて都市労働者になれ、と農民に選択させるわけです。農奴解放令の1861年は、イタリア統一南北戦争の勃発と同年なので覚えておきましょう。

 

このころ日本は幕末です。クリミア戦争勃発の1853年にアメリカのペリーの黒船艦隊が来航して開国をせまりました。これに対抗するため、日本人は封建制度をやめて明治維新をやったのです。つまり、同じ時期に黒船(蒸気船)ショックを受けたロシアと日本が、ほぼ同時に封建制度を廃止して、近代国家に生まれ変わるわけです。クリミア戦争は、ロシア版「黒船来航」です。

 


この時代はドイツ統一とも重なります。1870年、普仏戦争でビスマルクがナポレオン3世を破って、一番喜んだのはロシアでした。アレクサンドル2世は、フランスに押し付けられたパリ条約を破棄して黒海艦隊の再建に着手。一方、ビスマルクは、フランス第三共和政に対抗するため、独・墺・露の三帯同盟を結成(1873)。ロシアは、ドイツという強力な同盟国を得たわけです。

 

さて、ドイツはフランスに対抗する軍事同盟として三帝同盟を結んだのですが、ロシアはオスマンに対抗するため三帝同盟を使おうとする。ここに両国の思惑のズレが生じました。また、三帝同盟の一員であるオーストリアは、ロシアのバルカン進出に反対している…

 

1877年、ロシアは正教徒支援を口実にオスマン帝国に侵攻、露土ろと戦争が始まります。これに呼応してバルカン半島の諸民族はいっせいに立ち上がり、イスタンブルの直前にまで迫ったロシアは、オスマンにサン=ステファノ条約を強要しました。

 

@    ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立を認めろ。

A    ブルガリアはロシアの保護国とする。(ロシア軍が駐留する)

B    ブルガリアの領土を南に拡大し、マケドニアを含む大ブルガリアとする。

 (ロシアは地中海への出ロを獲得、南下政策を実現する)

 

こんな身勝手な条約を、イギリスが許すはずがありません。イギリス首相ディズレーリは地中海に艦隊を派遣し、「もう一度、クリミア戦争をやりたいのか?」とロシアを脅迫。もしも、第2次クリミァ戦争になった場合、英VS三帝同盟VS仏という図式になり、英・仏が同盟を組む恐れがある。また、バルカン諸国独立に反対している墺が英側に寝返った場合、英・仏・墺VS独・露という図式になり、独・露は必ず負けるだろう。仏はアルザスを奪回し、ドイツは再びバラバラにされるかもしれない。ビスマルクは焦ります。「まっ、まずい!」

 

「みなさん、戦争はいけません! ベルリン会議でバルカン問題を話し合いましょう!」

ビスマルクがまとめ、各国が調印したベルリン条約(1878)は、次のようなものでした。

 

@    露は、ブルガリアをオスマン帝国に返還しなさい。セルビアなど3国の独立は認めます。

A    オスマン帝国は、ブルガリアの代わりに、キプロス島の行政権を英に渡しなさい。

B    オスマン帝国は、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ行政権を墺に渡しなさい。

(墺軍がボスニア=ヘルツェゴヴィナに駐留し、独立運動を抑え込む)

 

ドイツは何ももらっていません。しかし、露・墺・英の信用を得て、第2次クリミア戦争を回避したのです。これが、ビスマルク外交です。各国代表はそれぞれ得るものを得て、帰国しました。しかし、よく考えてみれば、ロシアの南下はまたもや阻止されたのです。問題は先送りされただけで、ロシア国内には不満がくすぶります。


 

ベルリン会議の30年後、再びロシアはバルカン進出をはかり、これを阻止しようとするドイツ・オーストリアと対立。これが、第一次世界大戦(1914〜)の直接の要因となるのです。

 

061211更新)

 



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ナポレオン戦争 - Wikipedia

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