ソロモンのトニ·モリソンの小説ソングに, 1文字, 牛乳の叔母ピラト, ないへそを持たないものとして説明されて, 前駆細胞との接続の証拠はない, ない根なし. それは常に想像できなかった, 不可能な画像.
!doctype>2012年5月31日木曜日
2012年5月19日土曜日
日本人は、なぜ、地震常襲列島の海岸に「原発銀座」を設営したのか?
<資料と解説>
日本人はなぜ、地震常襲列島の海辺に「原発銀座」を設営したか?
- 3・11原発震災に至る原子力開発の内外略史試作年表 -
Why Japanese Put up Strings of Nuclear Plants along
Their Quake-Prone Archipelago?
- A Historical Chronology of the 3.11 Fukushima Nuclear Disasters -
佐々木 洋
要旨:
歴史は繰り返さないまでも、その韻を踏む。小論は、第二次大戦前夜から3・11原発震災が起こるまでの、わが国の原子力開発の経緯を歴史的に理解する予備作業として、わが国内外の安全保障と原子力開発の展開史を鳥瞰する年表を試作してみた。核兵器の開発戦略から完全に分離された、純民生用の「原子力の平和利用」としての原子力発電は、わが国を含め、存在しない現実に照らし、原発の開発の歴史を、核兵器の開発との関連を意識して編集に努めた。3・11の経験を踏まえて、内外の原発の歴史を検証することのなかには、わが国の良識派をもって自任する人々が共有してきたと思われる世界観や歴史観を問い直す課題も含まれる。
(キーワード:軍産複合体 核開発 東西冷戦 スターリン体制 核燃料サイクル 六ヶ所村)
【1】世界現代史および日本現代史の分水嶺としての3・11原発震災
2011年3月11日に東京電力福島第一原子力発電所で起きた同時多発的原子炉事故、あるいは石橋克彦のいう「原発震災」(地震による原発の放射能災害と通常の震災とが複合・増幅しあう破局的災害)が、世界と日本の原子力発電の歴史における大きな分水嶺になることは間違いない。
わが国の原発問題の必読書、吉岡斉(2011)『新版 原子力の社会史』(朝日選書)が指摘するように、私たちは福島原発震災に関して、「なぜそれがソ連で1986年に起きたチェルノブイリ事故に次ぐ、史上最大級の原子力事故に発展してしまったのかについて、基本的に考え直す必要がある。そのためには歴史を検証する必要がある」(同書398頁)。同書は、日本の原子力開発利用の歴史を、草創期から、3・11原発震災までをカバーする鳥瞰図的な通史として描いた労作である。こうして私たちは、幸いにして、わが国の原発問題を考える際に、どうしても不可欠な、日本の通史的な座標軸を与えられている。
福島原発震災は国際社会にも多大な衝撃を与えた。オバマ政権は、空母ロナルド・レーガンを派遣し、トモダチ作戦を展開した。『琉球新報』は、「兵士の献身的な働きぶりには敬意を払う」としつつも、「半面、彼らが所属する海兵隊が戦後沖縄でどれだけ傍若無人に振る舞ってきたのか。その点にも思いを巡らせてほしい」と指摘した。米誌WSJは、日本が、米国の現代戦を研究する上で「思いも寄らない実験場」となり、米海兵隊当局者は、トモダチ作戦が、「最悪の戦争シナリオに対する米軍の対応を研究する上で有益だったとの認識」を示したという1。また、菅政権による浜岡原発の停止措置は、横田や横須賀の風上にある浜岡を懸念する米国の意向であったとも言われる。
平和憲法をもつ日本は、原子力基本法、非核3原則、NPT条約加盟などから「核武装の意向」を否定してきた。日本人の多くも、わが国の核武装はありえないと考えてきた。ところが、日本が原発大国化してくる過程で、国策としての「再処理-国産高速増殖炉路線」は、一度も見直すことなく現在に至っており、2006年3月からは、青森県六ケ所村に建設した大型再処理工場でアクティブ運転を始めてきた。こうして大規模なプルトニウム利用計画を堅持する日本は、かねて、内外から、核武装の意図を疑われてきた。日本はすでに核兵器製造に必要なものの大半は入手しているし、核兵器の運搬手段に転用しうるロケット技術も確保している。3・11はこうした日本で起きた原発震災であった。それゆえ、わが国の原発問題の歴史的な検証は、日本の現代史にとどまらず、日本がおかれた国際関係の歴史的なかかわりのなかに位置づけて進めていく必要があろう。
そこで筆者は、第二次世界大戦の前夜から3・11原発震災が起こるまでの、わが国の原子力開発の経緯を理解する予備作業として、わが国内外の安全保障と原子力開発の展開史を鳥瞰する年表を試作してみた。年表は、核兵器の開発という軍事戦略から完全に分離された、純民生用の「原子力の平和利用」としての原子力発電が、歴史的に存在しなかった現実に照らし、原発の歴史を核兵器開発との関連性を意識して整理・編集に努めた。
3・11を経験したあとで、内外の原子力発電の歴史を検証することのなかには、わが国の良識派をもって自任する人々が共有してきたと思われる世界観や歴史観を問い直す課題も含まれる。
拙論の主眼は、3・11原発震災を、内外現代史の分水嶺として理解する一材料としての年表を試作することにあるが、以下に、筆者が、年表の時系列的なフォローでとくに考慮した視点について3点に限り概略し、次いで作表レイアウトと主要な参考文献について述べておきたい。
【2】歴史は繰り返す:歴史アナロジーの素材として
年表の作成で着眼した第一は歴史のアナロジーである。歴史は繰り返す。あるいは、マーク・トウェインの格言が示唆するように「歴史は繰り返すことはない。だが往々に韻を踏む」。
地震国であり被爆国でもある日本が、3・11原発震災を起こした歴史を検証するためには、原発もしくは原子力エネルギーが、いかなる世界史的な所産であるのかに関し、もう一度、アジア・太平洋戦争の敗戦という原点に立ち戻る必要があると思われる。
日本軍が、泥沼化していた中国戦線に加え、1941年12月の真珠湾攻撃とマレー作戦により、東南アジア全域と太平洋にまで戦線を広げたことから、第二次世界大戦は、まさに日本によって、人類史上空前の「真の世界戦争」へと発展した2。米国は、1941年3月の武器貸与法の制定により、中立政策を放棄していたものの、パールハーバーにより、国内になお残る「孤立主義」や厭戦ムードが跡形もなく消え、原爆開発に向けて軍産学を総動員する「マンハッタン計画」が本格的に動き出した。日本こそが、「核の時代=プルトニウムの時代」を引き寄せる陰の主役になったのである。
加えて、対日原爆投下がなければ、原爆の完成も、それゆえ副産物としての原子力発電もなかった。ドイツが核開発を断念したことは、1942年半ばに判明しており、ナチスの原爆開発は連合軍による43年12月のノルウェー重水工場破壊によりとどめを刺されていた。だが、ドイツの降伏が間近に迫った1945年4月に、米軍は日本への原爆投下先を決める目標委員会でその対象を絞り込んでいく。かくして、ナチスより先に原爆を作るという「マンハッタン計画」の競争が、日本が降伏する前に原爆を完成させ、実戦で使用する競争へと転換する。原爆開発の中心人物レスリー・グローヴス将軍らは原爆が使用される前に日本が降伏するのを死ぬほど恐れていた。使用せずに終戦となればマンハッタン計画は容赦のない調査と非難にさらされる懸念があったからだ3。
!doctype>2012年5月18日金曜日
滝CHANnel|山田涼介愛ingなブログ
今、滝CHANnel見た!
野球大会のやつなんだけど…
山田くん映らないぃ~(笑)
というかJUMPメンが映らない(泣)
でも、たまにチラチラと映る
てか、マラソンの勝利…
『コース間違えたので
2012年5月17日木曜日
アルメニア
アルメニア/トルコの歴史
「アッラーフアクバル!」
「はいはい、あっらーふあくばる」
「ようこそイスラム近現代史の授業へ!
この授業では、愛と慈悲にあふれるイスラム教への更なる深みを学んでいただきます!
講師は私、血の教典のモズグスが務めましょう」
「テッサ先生もおっしゃっていましたが、近現代史こそ本当に学ぶべきものです」
「ということは、ぶっちゃければこっちのほうが本編より大事なのか?」
「そんなことはありません、本編はイスラームの誤解を解き、イスラムへの理解を深めていただく為に行っているのです」
「理解を深めるとか言ってるけど…おっさん、あんた異教徒は殲滅だとかぬかして、イスラムの印象がんがん悪くしてんすけど」
「師に向かっておっさんとは何事ですかエクセルさん!貴方には信仰が足りないようですね!」
「御師匠様!アレだけは堪忍を!」
「(まあ、モズグス師はマジカルイスラーム世界のマジカルイマームだから問題ないですよね)」
「現代史についてはこちらでも取り上げてもらえるかもしれません」
「今回はこの国の歴史について語りましょう
大国トルコ、黒海沿岸の国グルジアに面したこの国はアルメニア共和国と申します」
「(この地図、外務省公式から持ってきたけど…許可とかいるのかしら…?)」
「ほー、トルコとイランに挟まれておりますなあ…どんなイスラム国なんすか?」
「はい?アルメニアはキリスト教を国教とする国ですよ」
「んー?イスラム狂いのおっさんが、なしてキリスト教の国なんぞ?」
「イスラム狂いとはどんな造語ですか!信仰に狂いもやりすぎはありません!」
「いやー…あの、キリスト教が嫌いな師が、なんでキリスト教国の歴史について教えてくれるのかなあと」
「ふむ…それを理解していただく為に、改めてこの地図を見て感想を述べてみてください」
「一言で言えば最悪の立地、ですよね
イスラム教圏の大国に挟まれて、おまけに少し上に行けばロシアが見えてくる、いかにもキナ臭い地域かと」
「ん?ロシアやイランが怖いのはわかるが、トルコは違うだろ?
宗教に寛容で日本に優しい超優良国家じゃないのか?」
「エクセルさん、確かに私はトルコを素晴らしい国だと喧伝して参りました
エルトゥールル号事件を題材にしたFlashの登場、先のサッカー大会でのトルコの態度もありますし、恐らく日本におけるトルコの印象はここ数年格段に上昇したでしょう
しかしトルコもやる事はやる国だという事は理解しなければなりません」
「なんだ、トルコもなんか黒いことやってきたのか」
「というか、日本以外の国はやる事はちゃんとやってるんですよ、センパイ
日本はやる時にやる事をやらなかったおかげで外交後進国になってるんじゃないですか」
「はあ…金ばら撒くだけで皆親日国になってくれりゃ、楽なんだけどな…」
「ちゃんとやる事をやる大国トルコ、そして赤いロシア(ソ連)
二つの国に挟まれたアルメニアの歴史はまさに激動の歴史でした
ところでこれは小話ですが、世界の歴史上キリスト教を初めて国教に認定した国を御存知ですか?」
「ヴァチカン?」
「いえ、ヴァチカンが誕生したのはへたれドゥーチェ時代ですよ
まあローマじゃないのかしら?」
「そう思われるのが普通かもしれません
しかしテオドシウス帝が391年にキリスト教を国教に定めるより90年も前にキリスト教を国教に定めた国があったのです
それが当時ローマの属国であったアルメニア王国でした」
「ということは、アルメニアはばりばりのキリスト教国ってことですね」
「ええ、アルメニアにはノアの箱舟の舞台となったアララト山もありますし」
「それじゃあキリスト教徒にとってアルメニアは特別な国の一つになるな」
「アルメニア王国はビザンツとササン朝の緩衝国として生き続けました
しかしそのササン朝は南方よりやってきた新興勢力により打倒されました
そう、正統カリフ時代のイスラーム教団によってです
アルメニア地方はその後ウマイヤ朝、アッバース朝の勢力圏下におかれました」
「アルメニアにとって不幸中の幸いなのは、イスラム帝国が異教徒にある程度寛容であったということですね」
「ええ、ジズヤとハラージュさえ払えば信仰の自由は約束されていましたから
アッバース朝時代にはアルメリア人の官僚の姿もあったといいます
しかしその次の時代、セルジューク朝の統治に入るとアルメニアに不幸が訪れました
セルジューク朝のトルコ人は敬虔なイスラム教徒であるが故に寛容を忘れ、異教徒を憎む存在であったからです
頼みの綱のビザンツはマンジケルトで大敗し、小アジア全域を喪失しました
更にそれから数百年後にやってきたのが、あのモンゴルです
モンゴルの大襲来によりアルメニア地方は極度に荒廃し、多くのアルメニア人は国土を離れました」
「アルメニア人はジプシーみたいなものか?」
「んー、ジプシーというかユダヤ人や華僑みたいな感じと思われたが宜しいかと」
「というかセンパイ、なんでジプシーみたいな難しい言葉知ってるんですか?」
「昔、本拠地の無かったロッテが、ジプシーって例えられてた時代があってなー
ところでジプシーってそんなに難しい言葉か?」
「(センパイのレベルでは、ですよ)」
「さて時代はオスマン帝国時代に入ります
オスマン帝国は領内のアルメニア人に対し、信仰の自由、政治的自由だけでなくアルメニア人の自治権を認めました
アルメニア人の大司教がイスラム教の帝国首都で活躍できたのです
このおかげで、アルメニア地方からアルメニア人がオスマン帝国領内に流出しました」
「この当時のアルメニア地方はどの勢力下に置かれていたのですか?」
「ペルシャのサファヴィー朝です
ここで重要なのはオスマン帝国はスンニ派、サファヴィー朝はシーア派であったということです
おのずと両国は争いを開始し、アルメニア地方は再び戦いの舞台になりました
他宗教に寛容でなかったサファヴィー朝はアルメニア人に強制移住と改宗を強い、アルメニア人は救いを西欧のキリスト教徒に求めました
しかし植民地獲得や遠方貿易に忙しかった西欧諸国は介入を拒んだのです
そこでアルメニアの人々が頼ったのが東欧のキリスト教国、ロシア=ロマノフ朝のピョートル大帝でした」
「ロシアって単語だけでこれからなんか酷い事が起きる予感がするな」
「センパイ、ロシア=悪ってのは安直すぎますよ
ただロシアはやる事は絶対徹底的にやる国なんです」
「まあ実際に悪いのはキ印の指導者であって、ロシア自体がどうというわけではありませんが」
「この時代のロシアはこちらがとってもわかりやすく説明してくれています」
「人任せにするのもどうかと思うけど、世界史コンテンツも増えたし、こういうリンクもありなのかなー」
「大帝は近代化と不凍港獲得を旗印に、拡張政策を取りました
そこにペルシャのアルメニア人が援助を申し込んできたのです
ペルシャの政情、地理情報をアルメニア人から掴んだ大帝は、サファヴィー朝の打倒が容易だと思ったようです
その橋頭堡として黒海東部山脈部コーカサス地方を平定したロシア軍ですが、直後サファヴィー朝はアフガン人に大侵略を受けました
ここでペルシャ情勢は一転します
アフガン人はスンニ派であり、ペルシャにアフガン人の王朝が確立された場合、オスマン帝国とアフガン王朝は手を結ぶでしょう
するとロシアの南下は難しくなってしまいます」
「いくらオスマン帝国が弱体してたとはいえ、ロシア帝国単独で渡り合える相手ではありませんしね」
「そこで大帝はサファヴィー朝を援助する名目で、サファヴィー朝勢力を味方にします
武装蜂起したアルメニア人とともに南下を再開しますが、流石のオスマン帝国はロシア軍を跳ね返し、ロシアは撤退しました
残されたアルメニア人はゲリラ戦で持ちこたえますが、アフガン人に押され抵抗は弱まりました」
「この頃はロシアも大変だったんですなー」
「北方とはなにかと勝手が違いますしね」
「大帝の死後はロシア帝国内の動乱により南下は止まりましたが、エカテリーナ二世大帝時代には再開されました
ついにロシアとオスマン帝国の全面戦争、露土戦争です
この戦いはロシアが優勢で、1774年のクチュク・カイナルディ条約によりロシアがクリミア半島を獲得し、黒海へ進出するキッカケを得ました
ロシアの南下は止まらず、グルジアに進出すると反抗的な部族を村ごと葬りつつ、グルジアを併合をしました」
「無敵のオスマン帝国の化けの皮がはがれましたなー」
「いよいよロシアはコーカサス地方に進出できましたね」
「ええ、コーカサスまで出れば次はいよいよペルシャです
しかしここで大問題が発生しました
ロシアの皇帝パーヴェル一世が、インド進出を想像させる軽口を叩いてしまったのです」
「あらまあ、こりゃイギリスが黙っちゃいませんよ」
「もちろんかねがねロシアの南下に脅威を覚えていたイギリスは、皇帝の言葉に震撼しました
イギリスはトルコとペルシャを支援しロシアの南下に備えると、ロシアも対抗意識を燃やし南下政策を推し進めました」
「なんでまたパーヴェルさんはそんな軽口叩いたんすか」
「一説にはパーヴェル一世は誇大妄想持ちだったと言われていますが」
「誇大妄想か…まあこの世の中には誇大妄想狂の指導者たくさんいるけどな…」
「世界征服をガチで企んだり、世界を赤化しようとしたり、そういう人が大国の指導者になると愉快ですよね」
「愉快な奴らのおかげで何人死んだやら…」
「そういう人間が出ない為にも、世界をイスラム教で統一し、神の教えの下、粛々と生きてゆく必要があるのですね」
「おっさん!そりゃあんたが一番の誇大妄想狂だ!」
「誇大妄想と理想を一緒にするんじゃありません!」
「(まあ、理想も行過ぎると誇大妄想になるわね…)」
「しかしイギリスの思惑とは逆に、シーア派王朝のペルシャはオスマン帝国との闘争を再開
更にペルシャはロシア帝国にも戦いを挑みましたが、ロシアとペルシャではまるで大人と子供です
1828年、戦いに勝ったロシアはペルシャのガジャール朝とトルコマンチャーイ条約を結び、アルメニアはロシアに併合されました」
「出たー!受験生泣かせの条約!トルコマンチャーイとか言いながら、ロシアとペルシャの条約か!」
「(まあトルコマンチャーイ条約自体、そうそうテストに出ませんが…)」
「ここにいたり、アルメニアはいよいよキリスト教圏に組み入れられました
勢いは止まらずロシアはコーカサス地域を確固たる支配にする為、露土戦争を再開しました
もはやオスマン帝国に反撃する力は無く、 ロシア有利のアドリアノープル条約を結びます
!doctype>2012年5月15日火曜日
Home : Nature Digest
Top of page
Nature News
未来の超大陸は北極に誕生 - p2
Kerri Smith
doi:10.1038/ndigest.2012.120402
将来、形成されると予想される超大陸アメイジアは、北極海に誕生する可能性が。
遺伝子に刻まれた知能 - p3
Heidi Ledford
doi:10.1038/ndigest.2012.120403
小児期から老年期までの認知機能の安定性を追跡した研究から、認知機能に与える遺伝的影響の程度が明らかに。
赤ワインはなぜ健康によいか - p4
Ewen Callaway
doi:10.1038/ndigest.2012.120404
赤ワインの成分レスベラトロールの作用機序について、新たな見解が。
海藻で作るバイオ燃料 - p5
Zoe Cormier
doi:10.1038/ndigest.2012.120405
遺伝子組み換え大腸菌により、海藻から直接エタノールを生産することが可能に。
News Scan
一夜漬けはやめよう - p6
doi:10.1038/ndigest.2012.120406a
間隔を変えて繰り返すのが最良の学習法らしい
漂流する大震災の瓦礫 - p6
doi:10.1038/ndigest.2012.120406b
ハワイ諸島に流れ着いてサンゴ礁を害する心配がある
Commentaries
インフルエンザ伝播の研究は急務である - pp7 - 8
H5N1: Flu transmission work is urgent
Yoshihiro Kawaoka
doi:10.1038/ndigest.2012.120407 Original source: Nature (2012); doi:10.1038/nature10884
2001年9月11日:私たちが見た
H5N1鳥インフルエンザ研究をめぐり、議論が巻き起こっている。インフルエンザ研究者、河岡義裕は、インフルエンザのパンデミック(世界的大流行)を防ごうとするなら、哺乳類で伝播する鳥インフルエンザウイルスの研究を継続することが必要だと主張する。
なぜ、NSABB は論文の一部削除を勧告したのか - pp9 - 11
Paul S. Keim
doi:10.1038/ndigest.2012.120409
2012年5月13日日曜日
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!doctype>2012年5月12日土曜日
Natiz FAQ|軍事板常見問題&良レス回収機構
c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ
◆◆◆ナチス関連
<◆◆ドイツ関連
<◆総記・組織
<欧州方面・目次
<第2次世界大戦
【link】
「D.B.E. 三二型」:「ヒトラーの頭がい骨」,実は女性のものだった 米研究で明るみに / 情報源Ak
「D.B.E. 三二型」(2011/01/22)◆ヒトラーの未公開写真を競売 390万円で落札 英国
「D.B.E. 三二型」(2012/01/19)◆独でヒトラー著作販売へ 英出版社,禁止求め提訴も
「D.B.E. 三二型」(2012/01/19)◆ヒトラー暗殺計画の舞台を観光地に,ポーランド当局が投資誘致
「F速VIP(・ω・)y-〜」:みんな大好き ヒトラー名言集
「Gigazine」◆(2010/12/24)総統のクリスマス,1941年のナチスのクリスマスパーティーの様子を伝える貴重なカラー写真
「Net Bunker」(2010/05/30)◆萌え萌えナチス読本 「第三帝国を萌やし尽くせ!」 - アキバBlog
「YouTube」:Hitler in England
「YouTube」:Hitler Rap
「YouTube」:Hitler Song
「YouTube」:Spring time for Hitler 2005
「YouTube」:Jesus vs. Hitler
「YouTube」:Jesus vs Terminator(おまけ)
「YouTube」:総統閣下の絵
「YouTube」◆(2006/11/06)police vs nazi in moscow
「裏日本観察学会」:exciteニュース:米兵が持ち帰ったヒトラーの地球儀、1300万円で落札
「カラパイア」◆(2010/11/23)ナチスが使用した為にタブーとなった鉤十字,昔はこんなに使われていた
「ザイーガ」;【画像】ヒトラーが治療をしていた陸軍病院の廃墟画像
「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫がフューラーになるようです
「それにつけても金のほしさよ」◆(2009/12/04)やる夫がフューラーになるようです 番外編 ヴィニフレートとヘンリエッテ
「それにつけても金のほしさよ」■(2011/01/30)(最終回)やる夫がフューラーになるようです 第36章 意志の勝利
「大陸浪人のススメ 〜迷宮旅社別館〜」:中国人「第二次大戦で好きな人物は?」→「ハイル,ヒトラー!!」
「つるや連合」:ミュンヘン一揆記念 こんなヒトラーは嫌だ!3
「ネタちゃんねる」:ヒトラーのカラー写真,初公開
「暇は無味無臭の劇薬」◆(2012/01/29)「ヒトラーのカラー写真が私邸から新発見」海外の反応
「メガとんトラック」◆(2010/04/07)ヒトラー入手図るも失敗,トリノ聖骸布を極秘移送 - 政治・社会 - ZAKZAK
「やる夫がフューラーになるようです」番外編 やる夫と「メトロポリス」
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第2章
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第3章(前)
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第3章(後)
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第5章 後編
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第6章 後編
『ナチ略奪美術品を救え』(ロバート・M・エドセル著,白水社刊,2010.12)
ナチス高官による大陸の美術品略奪を描いた,『ヨーロッパの略奪』との対を為す本.
こちらは,米英軍内に設けられた,文化財保護の為の特殊部隊MFAAの活躍を描いた本で,北アフリカと米国で別々に生まれた文化財保護部隊が,イタリア戦線までは歴史的建造物の保護を目的にしていた事を描き,ノルマンディー以後は,ゲーリングとヒトラーを中心としたナチス幹部が,ローゼンベルク機関に代行させた美術品略奪から,それを取り戻すまでの過程を描いている.
たった60名の,2等兵から佐官までの人々のうち,8名の活躍を取り揚げ,様々な伝手や資料を駆使して,美術品を取り戻す驚異的な粘りと,戦闘中,命を落とす事も少なくなかった事などが明らかになっていく.
大著だけど,結構読み応えのあっ� �本でした.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2011/07/09(土)
『ヒトラーの経済政策』(武田知弘著,祥伝社,2009,4)
すげえトンデモだよ.著者の主張は
「今の管理通貨制度のようなものを,ナチスは既に実践していた!」
というものだね.
ケインズが褒めていたとか,独逸の行った画期的な通貨制は,不況を脱しするに有効だったが,戦後アメリカによって世界は金本位制に戻された,とか.しかしあの政策は,その経済政策を採ったシャハト博士の功績なんだがね.
で,せっかく上手く行きそうだったのに,ヒトラーが再軍備始めておじゃん.
再軍備はヒトラー政権以前からの志向であり,政権獲得に際しての軍部との約束でもあったからなあ.
だもんで就任直後から本音をバラして,金を使い始めたり….『大国の興亡』(ポール・ケネディ著,草思社,1993.3)の下巻� ��も,その辺は詳しく述べられている.
あの本の執筆者は,『大国の興亡』すら読んでないんじゃないかね.内容を読んでて,どうもおかしいと思っていたが,著者が1967年生まれで,経済学部中退の只のライターと知って納得した.
他の著作も見てみたが,似たりよったりだったな.
新書は,本職の研究者が一般人向けに書いた概説書と在野の人のトンデモ本との落差が激しいね.が,アマゾンでは好評で,2chではこの本を元に演説する人も….
――――――名無しの愉しみ(黄文字部分)他 in 軍事板,
2009/05/15(金)〜05/16(土),06/10(水)
青文字:加筆改修部分
『ヒトラーの最期 ソ連軍女性通訳の回想』(エレーナ・ルジェフスカヤ著,白水社,2011.6)
やっと読了.本題自体は,1964年にソ連で初版が出て,ヒトラーが1945年4月に地下壕で自殺していた事を,初めて世に知らしめた古典なのだが,その後幾度か改訂を経て,今回もソ連の崩壊で新たに入手出来た資料,また西側の補完資料,そして,検閲で削除されたものを加えた改訂が行われている.
勿論,ヒトラーの歯形を解析する辺りがこの本の頂点なのだが,そこに至る前に,モスクワ攻防戦において,ルジェフで初めて著者が戦争に通訳として加わった(そして,ペンネームをルジェフスカヤとした)事や,以降の戦争の様相も書かれていて興味深い.
また,戦争に派遣する通訳の為の辞書を作っていた軍司令部が,最後の最後に辞書の不備に気がついた話も面白かった(罵倒語の辞書がなかったのだ)� �論の他に,幽閉されていた死の直前のジューコフとの会見記もあって,興味深く読んだ.
つか,ジューコフの回想記も,日本では1970年に朝日から出されたのが最期だが,その後,検閲解除版がソ連崩壊後に出されているので,そろそろこちらも改訂版が欲しい所だったりする.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/10/01(土)
青文字:加筆改修部分
『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック著,文藝春秋,2010.1)
邦題が少しおかしいけど,読書人として見た総統評伝.
ヒトラーの個人蔵書は約16300冊,軍事関連書籍は約7000冊.
戦史,軍服,武器,補給品,動員,訓練,士気,弾道学,あらゆる分野を網羅.
7000冊の多くを明らかに読破している.建築,演劇,絵画,彫刻関係が1500冊.
他には社会学,占星術,栄養・食事療法関連,教会関係等など.
大衆小説が800〜1000冊.推理主説,冒険小説を愛読していた.極度に集中して読書する性格で,1日1冊は読む.
徹夜もしばしば.
書斎のドアには「静粛に」の札が.
読書を邪魔したエヴァを怒って泣かした,なんて話も.――――――軍事板,2010/01/14(木)
ちょっとかじって思った.
以前このスレッドの前の前の前の前の前の 前位で,
「我が闘争の原著って幾らくらいだろうか」
と質問された時に,ヒストリカのオークションに掛けられていたタイプ原稿を,最低価格付きでカタログupしたけど,これって,この本が著された関係で掘り起こされた物だったんじゃないんかい.
そう考えると,あの時あんなんがいきなりオークションに現れたことに,納得がいくわなぁ.――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/19(火)
傑作.
当のヒトラー本人が蔵書に書き込んだ傍線・メモや,贈呈者からの献辞などを手がかりに,ユンゲ秘書嬢(「最後の十二日)のだ)等多くの関係者の助けを借りつつ,ヒトラーの思考過程を追い直すという手法は凄い.
特に,ガセ情報が多すぎるOccult/Supernatural方面の考証に関しては,これが今後の真面目なスタンダードになるだろう・・・でなけりゃ困る.ただこの板的に,1940年フランス戦役の書き方に,疑問なしとはしない.
ハルダー以下の参謀が,シュリーフェン計画に加えた二つの重要な改良が,
「イギリス軍の上陸を阻止するためにオランダに侵攻する,
及び,パリへではなくフランスの海岸線に向かう,という二点」(P269)
って…
確かにそうなんだ� �,当時,アルデンヌ方面から戦車で打って出るって事の意味合いが,これで伝わるかどうか.
他の項目でも,似た様な,結果として誤認になりかねない省略しすぎがなけりゃいいけど…――――――軍事板,2010/01/23(土)
ふお!?傑作ですかい.
ちょっと齧って思ったことだけど,アレを理解するのはかなりの雑学知識が必要だよ.
グラントの優生学が,あからさまに確信的に,残酷に纏め上げられているなんて,読んでも居ない私に解かるわけもなし,
ショーペンハウエルの澄み切った理解力なんて,著書を読まなければ読者たる我々には判断できんのよ.
ニーチェを芸術家と位置付けている事も然りで,なぜヒトラーがそう思ったのかなんて,それらを読まなければ解かるわけがない(笑)――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/24(日)
『もし高校野球の女子マネージャーがヒトラーの「マイン・カンプ」を読んだら』
第三帝国の「顧客」とは? 支配人種の資質とは? 国家社会主義におけるイノベーションとは?
フェルキッシャー・ベオバハター紙で絶賛!最高の感動型政治論集! 国家とはなにか,民族とはなにかこれでもかと訴えてくる.
オペルブリッツ車内にもかかわらず,思わず男泣き(国防軍兵士)物語形式でとてもわかりやすく読めました.「マイン・カンプ」でこんなに感動するとは.
後半の盛り上がりには手が震えました(親衛隊全国指導者)ベルリンへ撤退中ですが,一旦行軍を中止してでも読むべし!
「顧客とは何か」から考えることで,東部におけるスラブ人追放やレーベンスラウム,ドイツ人入植後のイメージを膨らませることができます(国民突撃隊員)――――――軍事板,2010/08/20(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチスという言葉は政敵が付けた蔑称と聞いたのですが,SSが映画の中で
「我がナチスは・・・」
と言ってるのは誤りでしょうか?
また,ナチス派の人々は,自らをなんと呼んでいたのでしょうか?
「国会社会主義ドイツ労働者党」なんて長い名前を言ってたんですか? それとも略称があったんですか?
【回答】
ナチスもナチも蔑称.
Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiを縮めてNSDAPとかNSと呼んでいたらしい.
(写真)ナチス党大会.旗棹の「NSDAP」の文字に注意
【質問】
ナチスなどが言ってた「アーリア人」には,どのあたりの民族まで含まれるんですか?
【回答】
ヒトラーの言う(およびその先駆者達も含む)「アーリア人」は,一般的な意味での民族とは異なります.実は,ヒトラー政権ができてから,「ユダヤ人」はだれか,どう判定するのかということが議論になるくらいにいいかげんな「人種論」「民族論」です.
大雑把に言って,
1.印欧語族のことを指しているときと(反セム主義,セムとはユダヤ人を指す)
「アーリア人は,鉄器をもたらした優れた民族」
2.印欧語族の欧州諸語人をさすとき(要するにヨーロッパ人を指すとき)
「有色人種に,文明を築く力なぞない」
3.印欧語族の欧州系のゲルマン系をさすとき
4.ドイツ人を示すとき
の四つがごちゃ混ぜに使われていて,はっきり本人の中でも定義づけられていま せん.
世界史板
【質問】
ドイツ人は生粋のアーリア人なの?
【回答】
ドイツの学者がドイツ古代史について書いた本(日本語訳)を読んだことがあるが,現在の研究によれば,どうも「ドイツ人」は北方に住んでいた長身金髪碧眼の種族が,南方に住んでいた髪が黒く背が低い農耕民族と混血して形成されたものらしい,ということが判明しているのだそうだ.
北欧(スカンジナヴィア)のヴァイキング系ゲルマン人は金髪碧眼だけど,南ドイツの山岳系ゲルマン人は黒髪も多いとも聞いたことがある.
それに,北ドイツ方面になるとスラブ系の血が混じっているし,アルザス・ロレーヌ地方はフランス系住民もいる.
ズデーテンラントにしても,スラブ系との混血だってある.
東プ ロシア(飛び地)の地理的な位置からみても,スラブ系との血が混じっていてもおかしくはない.
それでアーリア人思想とか,スラブ人が劣等人種だとか,笑わせてくれる(笑)
ちなみに,ハンス・フォン・ドナンニー少佐,オットー・スコルツェニー中佐は苗字からスラブ系ドイツ人(ドナンニーもスコルツェニーも元々はオーストリア人だけど)で,アドルフ・ガーランドはフランス革命の時にドイツに亡命した,フランス貴族の末裔だと聞いたことがある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アーリア人優等説を唱えるナチス・ドイツにとって,日本人はどういう扱いだったのか?
【回答】
ヒトラーが制定した人種法は,日本にとっては憂慮の種となるものだった.
ノイラート外相はベルリンの永井松三大使の質問に対し,ドイツ国内の日本人は有色と見なされることはないと保証したとされるが,日本人・ドイツ人間の問題で,この口約に反する例が続出した.
1935年9月のナチ党大会では,「アーリアおよび非アーリア」という概念は,「ドイツおよび同種の血統のもの,ならびにユダヤ人その他の異種のもの」と公式に訂正されたが,その解釈と適用はケース・バイ・ケースとされたので,日本人にとっては満足にほど遠いものだった.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.49-51を参照されたし.
【質問】
ナチスの正式名称が国家社会主義〜〜ってあるんですけどヒトラーって社会主義者だったんですか?
【回答】
若干異なる.
本来の社会主義は国際主義という面もあって,生産手段の国家統制も世界全体を革命するための過渡的措置に過ぎない.
だから,最終的には国家を廃絶し,生産手段も富も世界中の人の共有物になり,
「各人が必要に応じて取る」
「みんな平等だから権力なんて不要」
という社会になるのを理想としている.
国家社会主義は,生産手段の国家統制を行うという意味では社会主義だが,国家廃絶を目標にしているわけではなく,あくまで国力増大の手段に過ぎない.
社会主義であるが,国家主義でもあるので,国家社会主義と言う.
だが,どこまで生産手段を統制するかの考えは人によって違いがあり,マジで
「私有財産認めない.生産手段は漏れなく国有化し� ��,貧富の差を無くすんじゃ!」
という人がいれば,
「私有財産は認める.生産手段も国有化はしないが,国の決めた計画経済には従属しろ!
貧富の差? 知るか,ボケ」
と言う人も居る.
ヒトラーは後者に属する.
(世界史板)
【質問】
ナチズムって何?
【回答】
ナチズムの本質は「反共民族主義」.
第二次世界大戦以前は,共産主義と対立する概念は王政または民族主義である.
しかし,既存の有産階級から富を取り上げて再配分を行い,国家主導で社会資本を整備するやり方は ,共産主義国の計画経済によくにているし,一党独裁によって個人へ権力を集中し強力な警察機構で言論の自由を 奪った点もまた共産主義政体に酷似している.
実施された政策で共産主義と全体主義を区別することは難しい.
(世界史板)
【質問】
なぜ今の若者がナチズムに傾倒するの?
【回答】
ナチスが政権を担っていた1929〜1945年は,最後の数年を除いて経済再建が上手く行き反映した時代でもあった.
また,現在のドイツは,トルコ人やイラン人などの外国人流入にって,治安や雇用事情が悪化している面がある.
これらのことから,いわゆるネオナチの心情には,経済的に繁栄し,他人種の排斥を行ったナチス時代への憧憬があると言われる.
世界史板
(写真)ネオナチの若者
(画像掲示板より引用)
【質問】
ナチとファシストは何が違うの?
【回答】
イタリアの全体主義がファシズム.政権党がファシスト党.
ドイツの全体主義がナチズム.政権党がナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党).
ただし,当時の反共民族全体主義政党の元祖がファシスト党であったため,全体主義をファッショ,全体主義者をファシストと通例して呼ぶ事も多い.
(世界史板)
【質問】
スターリンは右?左? ナチは右?左?
【回答】
スターリンは右翼ではなく左翼.ナチは右翼.
独裁かどうかが右翼か左翼かの区別ではないことに注意.
当時の左翼(コミュニズム)は,理想の政体として「プロレタリアート独裁」を掲げており,スターリンは思想的にはレーニンの敷いた「労働者代表による権力の集中」というレールに乗ったに過ぎない.
(世界史板)
【質問】
(このようになる可能性があったかは無視した上で,あえて)仮に対独賠償請求が常識的な金額になり,ワイマール共和国がヨーロッパにおいてまともに扱われた場合,ドイツにおけるファシズムの台頭はなかったのでしょうか?
それともファシズムの台頭は,賠償やルール占領の反動からくるナショナリズム以外の大きなものを基盤とする,回避しがたい現象だったのでしょうか?
白い狐 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【回答】
ヒトラーの台頭を招いたドイツへの戦後処理は,賠償金よりも領土問題のほうが大きかったのではと思います.
「大ドイツ主義」に基づいてヒトラーが取り返そうとしたズデーテンやメーメルの存在が,それを証明しています.
大幅な軍備制限もけっこう影響が大きかったのではないかと思ったり….
あれで軍部が恐慌をきたして,隠れ蓑部署を林立させてはワイマール政府のくびきを離れて活動する味を覚えてしまいました.
その結果,旧帝政時代の一番濃いフェルキッシュな成分が,唯我独尊な雰囲気を保ったまま軍部に保存されてしまい,初期のNSDAPへの隠れた支援へと繋がったのではないかと.
以上のことから,賠償金が常識的な額になっただけではファシズムの隆盛は避けられなかったでしょう.
個人的には,
「WW1の敗戦に際してヴィルヘルム2世がもう少し高潔な行動を取っていたら」
というのが,ナチスドイツ出現を阻止する最小の「IF」だったのではないかと….
Tono 929 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
もっとも領土問題に関しても,ウィルソンの14ヶ条が遵守されていたなら,その多くが保全されていた可能性があり,その点で多くのドイツ国民が連合国民に「騙された」と感じたのも無理はないところかと.
消印所沢
【質問】
ナチス政権下のドイツ経済は単純に言えば,
「1933年にはもう経済の立ち直りかけており,別段ヒトラーが出てこなくても問題はなかった.
むしろその立ち直った経済で,軍備増強を始めたヒトラー自体が,立ち直りつつあったドイツ経済を破壊したとも言える.
シュペアーの改革では,企業の寡占化が進んだ.
税金はアホみたいに高くなり,市場は統制され,闇市場が盛んになった」
こんな所ですか?
【回答】
ヒトラーの公約の中には,ワイマール時代に計画されていたものも多い.
たとえばアウトバーンなんかもそう.
賠償金漬けだったドイツを建て直したというのも,一方的に支払いを打ち切るという恫喝外交の成果であって,経済政策の� ��れとは違う.
ヒトラーの提唱した国家社会主義は,企業の合併・グループ化を押し進め,ドイツのあらゆる企業を巨大なピラミッド構造に収容しようというもの.
最後に頂点に立つ会社を国有化すれば,それ以下の会社もすべて国有と同じ意味になり,労働者は失業の心配がなくなるというのがセールスポイントだった.
なんだかペテンのような気がするのは,わたしの頭が悪いせいに違いない.
政権奪取は1933年だが,1936年にはもう経済が傾いているし,その1936年以降は軍事費の増大で,ドイツの行動は他国の財と資源と工場と兵器を奪う略奪に移行していく.
あのフォルクスワーゲンを買った市民は,殆ど居ないことも分かっている.
軍事板,2009/06/29(月)〜07/01(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチス・ドイツの戦前戦中の経済政策の実態について,知ることが出来る本は無いでしょうか?
「ヒトラーの経済政策 ―世界恐慌からの奇跡的な復興」(武田知弘 祥伝社新書)という本を読んだのですが,どうも基本的な歴史事実に関して間違いが多いのと,褒める割に,その部分に関するデータや参考文献の注が少ない点が気になりました.
そこで他の本で,その辺の突き合わせをしたいと思いまして.
【回答】
1920年代が中心で,1935年までのドイツの話になるけんど,
『総力戦時代のドイツ再軍備〜軍事財政の制度論的考察〜』(大島通義著:同文舘)
ドイツ財政史が専門の人だけど,結構面白かったですよ.
祥伝社新書の方がトンデモだってよく判る本です.
� �あと,部分的だけど,『国債の歴史』(富田俊基著:東洋経済新報社)には,ドイツがどうやって戦後の賠償金とインフレを押し込め,軍備に傾注していったかが,1章を割いて書いてあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
WW1後〜であれば
『ヴァイマルからナチズムへ ─ ドイツの経済と政治 1918-1945』(W・フィッシャー著,みすず書房 1982年 )
って本が参考になると思う.
経済政策とは少し違うけど,
リチャード・オウヴァリー『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』永井清彦監訳,秀岡尚子訳,河出書房新社
に,どういう人が党員になったのか,人の移動,食糧,失業者,貿易などの統計資料があるよ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜオーストリアはナチズムに抵抗できなかったのか?
【回答】
政党間の対立が苛烈で,対ヒトラー戦線を張るどころではなかったため.
以下引用.
――――――
オーストリア共和国体制の正統性〔オーストリア国民が共和国をハプスブルク帝国の後継国家として,忠誠心を向ける対象となれるための何らかの権威〕が既に弱かったことを考慮すれば,早くも1920年代には苛烈を極めていた政党政治が,その後の数十年間にさらに悪化したのも当然である.
社会主義者にしてみれば,ドルフスとその支持者が主張しているオーストリア愛国心は,権威主義支配と反動的政策を覆い隠すものでしかなかった.
ドルフス政権と社会主義者の間で1934年2月に発生した一時的な内戦により,政党間の憎しみはさらに強まり,その5ヵ月後にはオーストリアのナチスによるクーデターでドルフス自身が暗殺された.オーストリアが団結して対ヒトラー戦線を張るという可能性は全くな� �った.
オーストリアの政党政治が激烈だったのは,程度の差はあれ,経済危機の他,共和国に基本的な正統性がなく,1930年代のけるヨーロッパ政治全体がイデオロギー的に酷く分裂していた状態を反映していた.
加えて,1914年以前のオーストリアと比較してみれば,政党間の争いを仲裁したり,必要なら抑圧したりする絶対的な帝国や官僚機構も存在しなかった.――――――Dominic Lieven『帝国の興亡』」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.238-239
「次はチェコget」
【質問】
ヒトラー時代のドイツを「第三帝国」と呼ぶのはなぜですか?
【回答】
通説では,ナチスは,過去の栄光と自らを結びつけるため,神聖ローマ帝国を「第一帝国」として,再統一のドイツ帝国を「第二帝国」として数え,自らの国家を「第三帝国」と称したとしばしば言われるが,「第三」という語のドイツ語の「dritte」には「未来」の意味があり,ナチスのいう「DasDritteReich(第三帝国または第三の国)」とは,「未来の国」の意があり,ナチスのユートピア観がこめられているといわれる.
ヒトラーは将来,第三帝国における首都の新名称を「ゲルマニア」とするつもりであった.
(世界史板)
【質問】
ナチスのSSの制服について詳しい本教えて下さい.
【回答】
SSの制服と一口で言われても,黒服,通常制服,迷彩服,パンツァージャケット等,色々とある.
個人的オススメだと,並木書房の『ドイツ武装親衛隊軍装ガイド』と『第2次大戦ドイツ軍装ガイド』かな.
ただし前者はマケプレも高めなので注意.
他には文林堂のグラフィックアクション.シリーズも面白い.
(俺は90年代以降の新シリーズしか読んだことがないけど)
黒服なら,いずれも古書もしくは洋書になるが,制服制定の経緯や概要についての知識を押さえたいなら,
・原書房刊,ロビン・ラムスデン著 知野龍太監修:
「ナチス親衛隊SS軍装ハンドブック」
現存する服の詳細を見て,服や徽章の材質や生地・縫製の詳細を知りたいなら,上記のネタ本である「SS-REGALIA」や,米Schiffer社辺りから出てる洋書の写真集を西山洋書辺りで買うのが吉.
!doctype>2012年5月10日木曜日
海外生活体験記
アメリカで働いてた時によく訪れた職場近くの公園での話。
ベンアフレック監督・主演で「The town」という映画が日本でも
近々公開される。銀行強盗の話だ。予告編をみて面白そうだなと思っていたら、
なんと舞台が僕が働いていたチャールズタウンではないか。(ボストンの隣町)
ナレーション:
「年に300件以上の銀行強盗が起こるボストン郊外のチャールズタウン。
全米一、銀行強盗発生率の高い街である。。。」
ほざけ。
これは僕の知っているチャールズタウンではないぞ。
チャールズタウンは金持ちしか住んでいない田園調布的なイメージなのにぃ。
街も綺麗だし、そもそもボストン郊外というが、
ボストン市内まで歩いて5分だぞ。むしろボストンと言っちゃっていいくらいだ。
どういうこっちゃ。
とまあ、そんなチャールズタウンにある会社に4年間勤めていた� ��だが、
会社の目の前にバンカーヒルモニュメントという記念塔があった。
なんでもバンカーヒルの戦い(Battle of Bunker Hill)でイギリス軍と
!doctype>2012年5月8日火曜日
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@Eł̎ȍ̋]Ґ im Zweiten Weltkrieg Bd.6ɂB(3)hCcR̐펀Ass75͓im Zweiten Weltkrieg Bd.6 Akademie Verlag, @Q̓́A픚̗N猻ꂽPChɎn܂Ǎ͓ɔAaÂbB i傤jAAxȂǁAٓiȂj픚҂̏Qiǂ┭sSȂǁjȂǂɁA ݂܂B @ɁA̔ȌɍLsɓlтƂɂAcː̉eŔa⎀Sƍl鎖Ⴊ ܂B @ suqV}̐S`iThe Spirit of HIROSHIMAjvz[y[WuLɓꂽqevt |
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2012年5月7日月曜日
Anzac DayとAnzac Biscuitの繋がり | 日刊ニュージーランドライフ
毎年4月25日はAnzac day(アンザック・デー)と呼ばれるニュージーランドとオーストラリアの祝日です。
そしてニュージーランドにはアンザック・ビスケットというビスケットがあります。
この2つ。同じアンザックという言葉を使っていますが、何か繋がりがあるのでしょうか。
両方とも同じ綴りAnzacです。この2つにどんな繋がりがあるのか調べてみることにしました。
Anzacってそもそも何
Anzacというのが、そもそも何なのか。そこを調べてみないと話は始まりません。
Wikipediaで調べたらすぐにAnzacの意味がわかりました。
Anzacというのは、Australia and New Zealand Army Corpsの略で、第1次世界大戦においてニュージーランドとオーストラリア出身の志願兵によって編成された軍隊のことでした。
Anzacがニュージーランドとオーストラリアの志願兵で作られた軍隊とわかれば、Anzac Dayがどんな日かおおよそ見当が付くと思います。
!doctype>2012年5月5日土曜日
HP Of Satoshi Iriinafuku - EU法講義ノート
第2次世界大戦後における欧州統合の発展 |
欧州統合の発展過程は、以下で説明するように、一つの段階が終了すると次の段階へ、また一つの政策が成功を収めると次の政策へと、段階的に発展してきた(いわゆる Spill-over-effect)。EUの発展過程は、まさにpoint of no return であったといえる。EUからの脱退、特に、1990年代は、経済・通貨同盟からの脱退について論じられたが、現実的にはそれは不可能であると考えられる。
1. 第2次世界大戦直後の動き − 緩やかな欧州統合 |
第2次世界大戦後、旧ソ連を除くヨーロッパ各国の衰退は露になった。大戦の実質的勝者は、アメリカと旧ソ連であり、両大国の力関係の都合で、ドイツは東西に二分された。両大国の狭間にあって、西欧諸国は、相互の軍事対立を回避すること、また、国際舞台における政治的発言力を強化することを政策目標に掲げたが、これが欧州統合の原動力となっていることは、今日においても変わりがない。
欧州統合は、特に第2時世界大戦後に著しい発展を見せたが、その過程において重要な点は、@戦禍によってヨーロッパは荒廃したことと、A東西対立の激化に伴い、西欧諸国は、アメリカの軍事ないし経済支援を受けたこと(そういう意味で、西欧諸国統合の基盤は整っていたといえる)である。また、B敗戦国ドイツは二分されたが、どのようにすれば西ドイツを西側陣営に適化させ、また国際舞台に復帰させることができるかどうかということも、欧州統合の論点の一つであった。
第2次世界大戦が終了した翌年(1946年)の9月19日、元イギリス首相のウィンストン・チャーチル (Winston Churchill) は、ヨーロッパ各国は協調すべきであることを力説し、アメリカ合衆国に類似する「ヨーロッパ合衆国」の設立を提唱した。また、ドイツとフランスの和解が何よりも大切であることを指摘した。もっとも、チャーチルの祖国イギリスは、彼が説く欧州統合に消極的であった。 | Winston Churchill (1874〜1965) |
それは、当時、イギリスは、主権の譲渡に反対していたこと、大陸諸国よりも英連邦(Commonwealth)との関係を重視していたこと、また、自国は米ソに並ぶ超大国であると考えていたことなどに基づいていた。 |
チャーチルの見解に共鳴し、西欧諸国間には幾つかの国際組織が編成された。例えば、経済面では、1948年より実施されたアメリカの欧州経済復興援助計画(マーシャルプラン)の受け皿として、西欧17カ国でOEEC(欧州経済協力機構)が結成された。その後、OEECはOECD (経済協力開発機構) に改組された。
より一般的な目的で設立された国際機構としては、欧州評議会(Council of Europe)が挙げられる(1949年設立)。同評議会は、諸国の統合体というよりは、統合のあり方について討論するためのフォーラムといった役割を有するに過ぎないが、1950年には人権保護を目的とした条約(欧州人権条約)を採択するなどの成果も挙げた。欧州人権条約は、ヨーロッパの公序として、また、広い意味でのEU法として重要である(参照)。欧州評議会の場では、この人権尊重の精神の他に、民主主義の重要性も強く認識されることになった(EUによる欧州人権条約の締結については こちら)。
!doctype>2012年5月4日金曜日
第 3 章 独立の喜びから動乱の悲劇へ
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| |
| 独立式典とルムンバの演説 |
| コンゴー動乱の始まり |
| ベルギーの出兵とカタンガの分離独立 |
| 国連軍の介入 |
| ルムンバの決断と挫折 |
ついに約束の6月30日がやって来ました。前日の29日にはベルギーのボードワン国王がレ
オポルドヴィルに到着しました。ンジリ空港では国王の優しい人柄からしてコンゴ側からも丁重
な出迎えを受けました。でも、国王は、1955年に訪問した際の歓迎の熱烈さと何か違うものを
感じていたはずです。
独立式典はコンゴ河沿いの高級住宅地区カリナに建てられたパレ・デ・ナシオン(国家宮殿)
で行われました。この建物は植民地当局が総督府と総督官邸として新たに建設したものを、急
遽独立のタイミングに合わせて国家宮殿として改装し、国会議事堂として使えるようにしたもの
です。入り口の広場には馬上のレオポルド2世像が建てられています。
式典の当日となって、ボードワン国王はルムンバ首相の演説の内容についての情報を聞かさ
れ、非常にショックを受けました。しかし、自らの演説の内容を修正する余裕もなかったのです。
側近たちが書き上げた演説原稿は温情主義的な言葉に満ちたもので、国王は、コンゴを植民
地として築き上げたレオポルド2世に賛辞を捧げ、それ以来の植民地政策が、現地の人々の
文明開化をもたらしたことを強調し、ベルギーが築き上げた素晴らしいコンゴの国を、コンゴの
人たちが立派に引き継いでくれることを願う趣旨の内容でした。
これに対しカサヴブ大統領は、ベルギーが独立を与えてくれたことに謝意を表することを基調
とした演説を行いました。彼はルムンバが過激な演説をすることをうすうす感じて、何とかルム
ンバを牽制しようとしたのです。
それにも拘わらず、パトリス・ルムンバが始めた演説は過激で、挑戦的であり、独立とは植民
者から有難くいただいたものではなく、自分たちの力で血を流して勝ち取ったものであると言い
放ちました。ルムンバの言葉は、国家宮殿を埋め尽くしたコンゴ人の政治家、各界と各地域の
代表者たちの民族意識に火をつけました。曰く、「80年間の植民地体制の下にあった我々の
運命がどのようなものであったにせよ、我々が受けた傷は余りにも痛ましく、苦悩に満ちたもの
であった。我々はそのことを記憶から消し去ることができない。我々は過酷な労働を要求され、
その代償にもらった賃金では、飢えを満たすことも、着飾ることも、人間らしい家に住むことも、
愛すべき子供を立派に育てることもできなかった。我々は朝に、昼に、夜に、皮肉られ、侮辱さ
れ、殴打された。それは単に、我々が《黒人》であったからである。人々が黒人を《君》(*1)呼ば
わりするのを誰が忘れられようか。それは、友人に対する親しみを込めた《君》ではないからで
あり、尊敬を込めた《あなた》(*2)という呼び方は、白人の間でしか使われなかったからであ
る。 (中略) 我々は、兄弟たちが殺される銃殺の場面や、不正と弾圧と搾取に反抗した者が手
荒く投げ込まれた監獄をどうして忘れられようか」。
これらの言葉にコンゴの人々は熱狂的な拍手を送り、歓声を上げました。予期せぬ演説の激
しさに驚いたウィニィ外務大臣は、エイケンズ首相の耳につぶやきました。「このような話は、一
国の首相がこのような時にやるべきことではないでしょう」。
ルムンバは、拍手の鳴る間に、興奮し過ぎた神経を静め、雄弁家としての理性を取り戻しまし
た。そして、演説のトーンはますます高揚したのです。ボードワン国王は、冷たい視線の中で硬
直して、ルムンバの攻撃に曝されて蒼白になりました。国王はたまりかねて、その場を立ち去ろ
うとしましたが、側近の人たちに宥められて、その場に留まっていました。
最後に、ルムンバ首相は、議会の少数派の人々に建設的な協力を要請し、我々のエネルギ
ーを浪費させ、海外での我々の信用を失墜させる部族間の紛争を、何としても避けることを願
いました。さらに、新生国家の発展に協力してくれる善良な外国人については、その生命と財
産の安全を保障すること、そして全国民に対して、コンゴの経済的独立を達成し、国民経済を
繁栄させるため、皆が仕事に励むよう要請して、演説を終えました。演壇を下りながらも、激し
い拍手は3分間以上続き、人々の歓声は鳴り止みませんでした。
2012年5月2日水曜日
5000年前の世界を遺すエジプトと人類の足跡を感じるトルコの旅
バスに乗り、再び小麦畑やさとう大根畑を眺めながらシルクロードを通り、西南のコンヤという街に向かいました。
トルコは第一次世界大戦まで雄志を誇ったオスマン帝国の流れもあり、軍事規模、軍人数共にヨーロッパ最大で、本軍人に予備軍も併せると80万人いるのだそう。
ことコンヤには陸・空軍基地と大学があり、都市化しているのだとか。
バスの中ではガイドのエルカン氏が今日も話し続けています。
『トルコ人の平均寿命は男性68歳、女性72歳です。 日本人と比べて男女共に10歳早いです。 死因は主に心臓病と肺癌、そして糖尿病であり、その病原としてはテロや金銭的な問題からくるストレスや油っぽいトルコ料理が心臓病を加速していると思います。肺病� �関していうとトルコのタバコのタールが最低でも7mgからと強いこと、糖尿病に関してはデザートが甘すぎるからかもしれません』
...納得だなぁ〜と聞いている私。 その他、次から次へとたくさんの情報を話してくれました。(ついてきてくださる方は是非ご一読を↓)
*チューリップやヨーグルトは実はトルコが発祥の地であること。
(オランダとブルガリアだと思っていました)
*トルコの男性は20歳から30歳までの間に6ヶ月〜15ヶ月間軍隊に入隊することが義務であり、入隊していない男性は男として認められない風潮が昔は色濃かったこと。
!doctype>2012年5月1日火曜日
読書日記 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (6)
●『アメリカン・ドリームという悪夢』 に戻る。
**************
◆ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり 以下、全文引用です。
北米大陸には北米インディアンと総称されることになる先住民が大昔から生活していたが、一五〇〇年代中頃から、スペイン、フランス、イギリスなどが植民地の建設を試み始めた。はじめの数十年間、その試みがしばしば挫折失敗した主な理由は、植民事業が本国の富裕な貴族や大商業資本家の投資(投機)の対象として行われたため、期待された利潤が上がらない場合には、現地の人々の苦難など気にせずに放棄したことと、それに、先住民の抵抗が結構強かったことであった。
一六〇七年、会社組織で着手されたイギリスのヴァージニア植民地も最初の一〇年は絶滅の危機に瀕したが、ヴァージニア会社の大口出資者に対して、一六一八年、多数の小口出資者が始めた経営改革運動(サンズの改革)が功を奏して立ち直っ� ��。この頃から北米大陸東岸地帯(ニューイングランド)へのイギリスの非国教徒の集団移住が始まる。本国て宗教的弾圧を受けた人々が新大地で新しい集団生活を始めることを主要な夢とした点に彼らの特徴があったが、生活空間を確保するには先住民を排除撲滅する必要があったことに変わりはない。
なぜ、そして、どのようにして、北米に黒人奴隷制が持ち込まれたか? これは重要な問題だ。私が今から記述することは、反米感情を下敷きにした歴史の書き直しではないシュブァイカート・アレンの『愛国者のアメリカ史』にもジンの『民衆のアメリカ史』にも、また、あれこれの学問的アメリカ合州国史に目を通しても、つまり、右からでも左からでも、おおよそ同じような答えが与えられている。
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