アルメニア/トルコの歴史
「アッラーフアクバル!」
「はいはい、あっらーふあくばる」
「ようこそイスラム近現代史の授業へ!
この授業では、愛と慈悲にあふれるイスラム教への更なる深みを学んでいただきます!
講師は私、血の教典のモズグスが務めましょう」
「テッサ先生もおっしゃっていましたが、近現代史こそ本当に学ぶべきものです」
「ということは、ぶっちゃければこっちのほうが本編より大事なのか?」
「そんなことはありません、本編はイスラームの誤解を解き、イスラムへの理解を深めていただく為に行っているのです」
「理解を深めるとか言ってるけど…おっさん、あんた異教徒は殲滅だとかぬかして、イスラムの印象がんがん悪くしてんすけど」
「師に向かっておっさんとは何事ですかエクセルさん!貴方には信仰が足りないようですね!」
「御師匠様!アレだけは堪忍を!」
「(まあ、モズグス師はマジカルイスラーム世界のマジカルイマームだから問題ないですよね)」
「現代史についてはこちらでも取り上げてもらえるかもしれません」
「今回はこの国の歴史について語りましょう
大国トルコ、黒海沿岸の国グルジアに面したこの国はアルメニア共和国と申します」
「(この地図、外務省公式から持ってきたけど…許可とかいるのかしら…?)」
「ほー、トルコとイランに挟まれておりますなあ…どんなイスラム国なんすか?」
「はい?アルメニアはキリスト教を国教とする国ですよ」
「んー?イスラム狂いのおっさんが、なしてキリスト教の国なんぞ?」
「イスラム狂いとはどんな造語ですか!信仰に狂いもやりすぎはありません!」
「いやー…あの、キリスト教が嫌いな師が、なんでキリスト教国の歴史について教えてくれるのかなあと」
「ふむ…それを理解していただく為に、改めてこの地図を見て感想を述べてみてください」
「一言で言えば最悪の立地、ですよね
イスラム教圏の大国に挟まれて、おまけに少し上に行けばロシアが見えてくる、いかにもキナ臭い地域かと」
「ん?ロシアやイランが怖いのはわかるが、トルコは違うだろ?
宗教に寛容で日本に優しい超優良国家じゃないのか?」
「エクセルさん、確かに私はトルコを素晴らしい国だと喧伝して参りました
エルトゥールル号事件を題材にしたFlashの登場、先のサッカー大会でのトルコの態度もありますし、恐らく日本におけるトルコの印象はここ数年格段に上昇したでしょう
しかしトルコもやる事はやる国だという事は理解しなければなりません」
「なんだ、トルコもなんか黒いことやってきたのか」
「というか、日本以外の国はやる事はちゃんとやってるんですよ、センパイ
日本はやる時にやる事をやらなかったおかげで外交後進国になってるんじゃないですか」
「はあ…金ばら撒くだけで皆親日国になってくれりゃ、楽なんだけどな…」
「ちゃんとやる事をやる大国トルコ、そして赤いロシア(ソ連)
二つの国に挟まれたアルメニアの歴史はまさに激動の歴史でした
ところでこれは小話ですが、世界の歴史上キリスト教を初めて国教に認定した国を御存知ですか?」
「ヴァチカン?」
「いえ、ヴァチカンが誕生したのはへたれドゥーチェ時代ですよ
まあローマじゃないのかしら?」
「そう思われるのが普通かもしれません
しかしテオドシウス帝が391年にキリスト教を国教に定めるより90年も前にキリスト教を国教に定めた国があったのです
それが当時ローマの属国であったアルメニア王国でした」
「ということは、アルメニアはばりばりのキリスト教国ってことですね」
「ええ、アルメニアにはノアの箱舟の舞台となったアララト山もありますし」
「それじゃあキリスト教徒にとってアルメニアは特別な国の一つになるな」
「アルメニア王国はビザンツとササン朝の緩衝国として生き続けました
しかしそのササン朝は南方よりやってきた新興勢力により打倒されました
そう、正統カリフ時代のイスラーム教団によってです
アルメニア地方はその後ウマイヤ朝、アッバース朝の勢力圏下におかれました」
「アルメニアにとって不幸中の幸いなのは、イスラム帝国が異教徒にある程度寛容であったということですね」
「ええ、ジズヤとハラージュさえ払えば信仰の自由は約束されていましたから
アッバース朝時代にはアルメリア人の官僚の姿もあったといいます
しかしその次の時代、セルジューク朝の統治に入るとアルメニアに不幸が訪れました
セルジューク朝のトルコ人は敬虔なイスラム教徒であるが故に寛容を忘れ、異教徒を憎む存在であったからです
頼みの綱のビザンツはマンジケルトで大敗し、小アジア全域を喪失しました
更にそれから数百年後にやってきたのが、あのモンゴルです
モンゴルの大襲来によりアルメニア地方は極度に荒廃し、多くのアルメニア人は国土を離れました」
「アルメニア人はジプシーみたいなものか?」
「んー、ジプシーというかユダヤ人や華僑みたいな感じと思われたが宜しいかと」
「というかセンパイ、なんでジプシーみたいな難しい言葉知ってるんですか?」
「昔、本拠地の無かったロッテが、ジプシーって例えられてた時代があってなー
ところでジプシーってそんなに難しい言葉か?」
「(センパイのレベルでは、ですよ)」
「さて時代はオスマン帝国時代に入ります
オスマン帝国は領内のアルメニア人に対し、信仰の自由、政治的自由だけでなくアルメニア人の自治権を認めました
アルメニア人の大司教がイスラム教の帝国首都で活躍できたのです
このおかげで、アルメニア地方からアルメニア人がオスマン帝国領内に流出しました」
「この当時のアルメニア地方はどの勢力下に置かれていたのですか?」
「ペルシャのサファヴィー朝です
ここで重要なのはオスマン帝国はスンニ派、サファヴィー朝はシーア派であったということです
おのずと両国は争いを開始し、アルメニア地方は再び戦いの舞台になりました
他宗教に寛容でなかったサファヴィー朝はアルメニア人に強制移住と改宗を強い、アルメニア人は救いを西欧のキリスト教徒に求めました
しかし植民地獲得や遠方貿易に忙しかった西欧諸国は介入を拒んだのです
そこでアルメニアの人々が頼ったのが東欧のキリスト教国、ロシア=ロマノフ朝のピョートル大帝でした」
「ロシアって単語だけでこれからなんか酷い事が起きる予感がするな」
「センパイ、ロシア=悪ってのは安直すぎますよ
ただロシアはやる事は絶対徹底的にやる国なんです」
「まあ実際に悪いのはキ印の指導者であって、ロシア自体がどうというわけではありませんが」
「この時代のロシアはこちらがとってもわかりやすく説明してくれています」
「人任せにするのもどうかと思うけど、世界史コンテンツも増えたし、こういうリンクもありなのかなー」
「大帝は近代化と不凍港獲得を旗印に、拡張政策を取りました
そこにペルシャのアルメニア人が援助を申し込んできたのです
ペルシャの政情、地理情報をアルメニア人から掴んだ大帝は、サファヴィー朝の打倒が容易だと思ったようです
その橋頭堡として黒海東部山脈部コーカサス地方を平定したロシア軍ですが、直後サファヴィー朝はアフガン人に大侵略を受けました
ここでペルシャ情勢は一転します
アフガン人はスンニ派であり、ペルシャにアフガン人の王朝が確立された場合、オスマン帝国とアフガン王朝は手を結ぶでしょう
するとロシアの南下は難しくなってしまいます」
「いくらオスマン帝国が弱体してたとはいえ、ロシア帝国単独で渡り合える相手ではありませんしね」
「そこで大帝はサファヴィー朝を援助する名目で、サファヴィー朝勢力を味方にします
武装蜂起したアルメニア人とともに南下を再開しますが、流石のオスマン帝国はロシア軍を跳ね返し、ロシアは撤退しました
残されたアルメニア人はゲリラ戦で持ちこたえますが、アフガン人に押され抵抗は弱まりました」
「この頃はロシアも大変だったんですなー」
「北方とはなにかと勝手が違いますしね」
「大帝の死後はロシア帝国内の動乱により南下は止まりましたが、エカテリーナ二世大帝時代には再開されました
ついにロシアとオスマン帝国の全面戦争、露土戦争です
この戦いはロシアが優勢で、1774年のクチュク・カイナルディ条約によりロシアがクリミア半島を獲得し、黒海へ進出するキッカケを得ました
ロシアの南下は止まらず、グルジアに進出すると反抗的な部族を村ごと葬りつつ、グルジアを併合をしました」
「無敵のオスマン帝国の化けの皮がはがれましたなー」
「いよいよロシアはコーカサス地方に進出できましたね」
「ええ、コーカサスまで出れば次はいよいよペルシャです
しかしここで大問題が発生しました
ロシアの皇帝パーヴェル一世が、インド進出を想像させる軽口を叩いてしまったのです」
「あらまあ、こりゃイギリスが黙っちゃいませんよ」
「もちろんかねがねロシアの南下に脅威を覚えていたイギリスは、皇帝の言葉に震撼しました
イギリスはトルコとペルシャを支援しロシアの南下に備えると、ロシアも対抗意識を燃やし南下政策を推し進めました」
「なんでまたパーヴェルさんはそんな軽口叩いたんすか」
「一説にはパーヴェル一世は誇大妄想持ちだったと言われていますが」
「誇大妄想か…まあこの世の中には誇大妄想狂の指導者たくさんいるけどな…」
「世界征服をガチで企んだり、世界を赤化しようとしたり、そういう人が大国の指導者になると愉快ですよね」
「愉快な奴らのおかげで何人死んだやら…」
「そういう人間が出ない為にも、世界をイスラム教で統一し、神の教えの下、粛々と生きてゆく必要があるのですね」
「おっさん!そりゃあんたが一番の誇大妄想狂だ!」
「誇大妄想と理想を一緒にするんじゃありません!」
「(まあ、理想も行過ぎると誇大妄想になるわね…)」
「しかしイギリスの思惑とは逆に、シーア派王朝のペルシャはオスマン帝国との闘争を再開
更にペルシャはロシア帝国にも戦いを挑みましたが、ロシアとペルシャではまるで大人と子供です
1828年、戦いに勝ったロシアはペルシャのガジャール朝とトルコマンチャーイ条約を結び、アルメニアはロシアに併合されました」
「出たー!受験生泣かせの条約!トルコマンチャーイとか言いながら、ロシアとペルシャの条約か!」
「(まあトルコマンチャーイ条約自体、そうそうテストに出ませんが…)」
「ここにいたり、アルメニアはいよいよキリスト教圏に組み入れられました
勢いは止まらずロシアはコーカサス地域を確固たる支配にする為、露土戦争を再開しました
もはやオスマン帝国に反撃する力は無く、 ロシア有利のアドリアノープル条約を結びます
ブラックリバーフォールズウィスコンシン州の歴史
黒海沿岸地域はロシアへ割譲され、ロシアはボスフォラス・ダーダネルス海峡の行き来の自由を獲得しました」
「ここまで来ればもうやりたい放題ですね」
「ええ、そしてロシアはオスマン帝国に最後通牒を突きつけました
オスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護権要求
つまりはバルカン半島を割譲しろと遠まわしに言ってきたのです」
「こんなの飲んだら、国としてなりたたねえじゃん」
「勿論オスマン帝国はこれを突っぱね、ロシアとの戦争に突入しました
1854年のクリミア戦争です」
「でもオスマン帝国がロシアに勝てる可能性は絶望的だと思うけど…」
「センパイ、勿論オスマン帝国一国じゃ勝てませんが、他国がこれに参加したらどうですか?
誰がどうみてもオスマン帝国がロシアに勝てる可能性は0%
このままならロシアはオスマン帝国を支配し、南下政策はより強行的になるでしょう
そうなると危うくなるのは大英帝国を支える一大貿易地インドです」
「なるほど、ロシアの南下政策を恐れたイギリスがオスマン帝国に味方したのか」
「それだけではありません
ロシアの地中海進出をよく思わないフランス、勝ち馬にのって権威を復活させたいオーストリアが立て続けにロシアに宣戦布告します
ここで弱いものいじめばかりをして天狗になっていたロシアの鼻は散々に折られました
産業革命を進めたイギリス軍に旧式軍隊のロシアは散々に打ちのめされ、ついには連合側に降伏しました
そして結ばれたパリ条約はロシアにとって衝撃的なものでした
ボスフォラス・ダーダネルス海峡封鎖とともにロシア黒海艦隊解散が決定し、ロシアの地中海進出が絶望的な物になったのです」
「よーしそれでいいんだ!それで!」
「あのー…センパイは何でロシアが嫌いなんですか?」
「寒い!」
「だけ?!」
「ピロシキ美味い!」
「いや、それは好きになる理由じゃないかしら、御師匠様…」
「でも実際問題、ここで挫けるロシアじゃないだろうねえ」
「勿論、産業革命の大切さをイギリス軍の強さで知ったロシアも、産業革命に乗り出しました
一方オスマン帝国もようやく近代国家は工業力がなければクズだということを悟ったようで、急速な近代化を推し進めました
これをタンジマード革命といいます
しかし努力を怠ってきたオスマン帝国にとって、急速な近代化は莫大な借款を必要とし、帝国財政は破産してしまいます」
「急速な近代化→破産コンボは近代最大の罠だな」
「(結局残るのは、一文の価値にもならない帝国としての意地とプライドだけなのよね)」
「そこの点、日本は奇跡の近代化ですね」
「ただオスマン帝国が主にイギリスから行った借金の大半は、スルタンの無駄遣いに消えたといいます
破産は必然的なものだったのですね」
「あらら…失敗したら死、の覚悟で挑んだ日本人とは覚悟が違ってたのかしら…」
「プライドだけ残ったオスマン帝国は、領内にくすぶる民族運動を抑えようとしました
先のギリシャ独立で、他の被支配の諸民族も立ち上がろうとしましたからね
しかしこの方法がいけませんでした
帝国はまだ自分が世界の超大国だと言わんばかりに、反乱をおこしたキリスト教徒を虐殺したのです」
「つくづく末期のオスマン帝国は体勢が腐ってるわね
西欧のロシアに対する思惑を笠に、こそこそやってりゃいいものを
実際イギリスはロシア対策に、オスマン帝国をロシアの軍事力に均衡するくらいまで援助して、存続させるつもりだったらしいですし」
「この後は想像に難いなあ」
「ええ、勿論ロシアはその虐殺を口実にオスマン帝国に宣戦布告しました
世界情勢につけこんだロシアはパリ条約を反故にして黒海艦隊を再構成、1877年の第五次露土戦争(または単体で露土戦争とも)の開戦です
勿論ロシアの圧勝でした」
「ん?英国やフランスはなにやってんだ?」
「ロシアがオスマン帝国に支配された民族の解放(汎スラヴ主義)を旗印にした以上、何も言えなくなったのですよ
本当はバリバリ戦争したかったのですが、国民感情を逆なでにしたら選挙で負けちゃいますから」
「あれ?もうそこいらの時代って自由選挙の時代だっけ?まあ調べんのめんどくさいからいいけど」
「結局オスマン帝国はサン・ステファノ条約を締結し、帝国領を東に西に大きく失う事になります
ロシアはオスマン東部領を割譲し、自分の息のかかったブルガリアを独立させたのですが…」
「勿論!西欧列強が黙ってるわけにはいかないな!」
「1878年のベルリン会議により西欧の圧力を受けたロシアは、サン・ステファノ条約を不利に書き換えられたのです
さて、帝政ロシアの復習はここらへんまでにしましょう
若干違うところもあるかもしれませんが、まあだいたいこんな感じです
その後ロシアは南方を諦め不凍港獲得を極東に求める事にしました
そう、日露戦争です
それはまた別の話としておいて、アルメニアのお話をしましょう」
「なげーよ、ここまでやるのに関係ないロシアの話、延々としやがって」
「関係ないとはなんですか!関係あるからやったのです!」
「ロシア支配下のアルメニアはどうだったんですか?」
「アルメニアのロシア化が積極的になされたのです
1886年頃、コーカサス地方の知事になったゴリーツィン公は同化政策を強行的に推し進めました
アルメニア人は公職から追放され、アルメニア人はあらゆる権利を剥奪されました
ギリシャ独立を契機に、アルメニア人はロシアに対し、オスマン帝国から全アルメニアを奪還しアルメニア人の国を建国してくれる事を望んでいました
それが叶わぬとわかった時、アルメニア地方の反乱の気運は極度に高まりました」
「ロシアさんがそんな親切な事してくれるはずないだろ!」
「はは…まあロシアを頼ったアルメニア人の心情はわからないでもありませんけどね…」
「でもそんなんなら、オスマン帝国のほうが居心地いいんじゃないか?」
「いいえ、オスマン帝国もアルメニア人の高まる民族運動に警戒を払っていました
ロシアとの戦争に負けるたびにトルコ人は異民族異教徒排斥の気持ちを強め、アルメニア人は迫害を受け始めていましたから
帝国が繁栄してた頃は領内のアルメニア人とも仲良く共存していました
しかし帝国の経済が破綻すると、トルコ人がアルメニア人からの借金を踏み倒すような事態がおきはじめます」
「んー?オスマン帝国ってちゃんとした裁判所とかなかったっけ?」
「ありましたとも、しかし異教徒の証言がムスリムの証言に勝ると思いますか?」
「はー、なるほど、思いません」
「あくせく働いて儲けるより借金を踏み倒したほうがいい
英国の借款を踏み倒したオスマン帝国の安直な考えが、国民にまで浸透してしまったようです
更には異教徒に対する人攫いまで横行しはじめました
攫われた少年少女は、イスラムに改宗させられ使役されたり、はたまた別の目的で…」
「あ"−っ!」
「なんですかセンパイ…突然大声出して…」
「いやあ、しかし日ハムに復帰するとは思って無かったよ」
「そのネタ、危険ですから禁止で)」
「ともかく!オスマン帝国領内でもアルメニア人の反乱気運は高まりました
そして1875年のボスニア=ヘルツェゴビナでのオスマン帝国に対するキリスト教徒の反乱が起きます
続く1876年にはブルガリア人の大虐殺です
そして汎スラヴ主義を唱えるロシアは、民族解放を旗印に第五次露土戦争を始めました
しかし西欧、特に大英帝国がこの問題を理由にオスマン帝国との友好を破棄したくなかったのは、先ほども言ったとおりです
国益(インド)のためならば正教徒が何人死のうとも関係ない
その少し前にエジプトからスエズ運河を乗っ取ったイギリスにとって、ロシアの艦隊が地中海に浮かぶ事態だけは避けたいです
英国首相ディズレーリはオスマン帝国の残虐行為をコーヒ� ��ショップの泡と例えました」
「流石は英国!ド直球すぎるホンネに憧れるぅぅぅっ!」
「でも国民感情を配慮したというのはお話したとおりです
選挙に負けたらもともこうもないので」
「露土戦争はロシアの大勝に終わり、サン・ステファノ条約によりバルカン半島の多くの被支配民族が独立しました
しかしその独立国家の中にアルメニアは含まれていませんでした」
「ロシアが同化政策を推し進めている所なんだから当たり前だろ?」
「ええ、しかしこれに反発したのは大英帝国です
ロシアによる全アルメニアを含むコーカサス地域完全支配が完成した時、ペルシャそしてインドの貿易陸路は危機にたつ
ならば戦争で追い出そう!
しかし第五次露土戦争のロシア軍は近代化されており、今ロシア軍と戦ってはクリミア戦争のような大楽勝にはなりません
そこで外交にて片をつけようと召集されたのがベルリン会議です
その動きを見逃すアルメニア人ではありませんでした
アルメニア人の使節はベルリン会議へと赴きました」
「でも、人権より国益な方々がいっぱいいるベルリン会議で、アルメニア人が相手にされそうな雰囲気はありませんね」
「勿論です
大国同士の凌ぎ合いの中にアルメニア人が口を挟めるような余裕はありませんでした
結局冷たくあしらわれ、改正されたサン・ステファノ条約(ベルリン条約)にはオスマン帝国に対するアルメニア人への改革は一応求める程度に留まりました
そしてオスマン帝国から奪ったアナトリア東部を返還させました
それでもベルリン条約後は国民感情に配慮して、オスマン帝国領内のキリスト教徒地域に外交官を駐在させます
そして国際的世論から、オスマン帝国のキリスト教徒に対する改革を迫りました」
「ここまでくればいよいよ行政改革せざるをえないだろ?」
「ええ、国際世論は親オスマンのイギリスの重い腰をあげさせるまでに高まっていました
それに列強はロシアの目が東方に向いたことにより、若干の余裕を感じたのか、人道主義に目覚めたようです
しかしこの列強の動きに一人異を唱えた人物がいました
プロイセンの鉄血宰相ビスマルクです」
「ありゃりゃ、超現実主義者のおでましですか」
「ビスマルクって…誰?」
「(弱小だったプロイセンの宰相で、20世紀最高の外交家
敵対していたフランスを外交的に孤立させ、巧みな外交戦術で列強間に小康状態を作り、戦争をおこさないようにした荒業をやってのけた人
…というか、ビスマルクも知らないなんて、ゆとりなのかしら?)」
「全部丸聞こえだぞ、エル…」
「ビスマルクは列強が迂闊に動けない状態を作るためには、オスマン帝国の存続が不可欠だと考えていました
オスマン帝国がなくなればロシアが乗り出す、そうなればイギリスが動き、連鎖的に他の国も動く
少なくともプロイセン=ドイツ帝国が戦争を出来る国力を蓄えるまで、連鎖的な戦争をさせないようにしかければならない
露土戦争の大敗後、オスマン帝国内では改革の動きがありました
下手に改革など迫ってスルタンの権威の低下を内外に知らしめては、ロシアがまた西欧に目を向けるかもしれません
『他の主義国家の国民の幸福にくちばしを入れるのは慈愛の考えだろう
しかし政治の中に慈愛を持ち込む事には反対せざるをない』
これはビスマルクの弁です」
「おお、なんという現実主義!アルメニア人は涙目だな」
「でもイギリスは黙ってないんじゃないかしら?選挙に負けるし」
彼らはハリケーンを知っているハリケーン·カトリーナは、政府の支援を行いました
「いえ、イギリスはオスマン帝国と密約を結んでいたおかげで、大きなことが言えなくなっていました
ここででしゃばれば列強内での信頼を落とし、発言力はなくなるでしょう
こうしてビスマルクの意見が通り、ビスマルクの思惑通り列強は軽い緊張感で緊縛状態に陥りました
このビスマルクの死まで続く小康状態をビスマルク体制といいます」
「まーこれでアルメニア人が見捨てられたってことになりますなー」
「その頃オスマン帝国は狂帝を迎えていました、赤いスルタンアブデュルハミト2世です
露土戦争後、憲法と議会を停止し専制政治へ逆戻りにするとんでもないことをしました
帝国内では秘密警察が跋扈し、密告推奨され、不満を持つ国民は軍事力で弾圧されました
もちろん領内のキリスト教徒に対する改革の約束なんて反故にしようとします」
「当然そうなりますよね、行政改革なんてご機嫌取りでしかありませんし」
「アルメニア人はここにきて他力本願の言論では民族自立は出来ない、自らの血を流さなければならない
と気づきました
オスマン帝国内のアルメニア人は民族解放の思想を、ロシア領内のアルメニア人は革命思想を持ち、蜂起の機会を探っていました
1890年、アルメニア人のトルコ人に対する抵抗運動が発生します
オスマン帝国史において初めての出来事です
これに対しアブデュルハミト2世は強硬な手段に打って出て、アルメニア人を投獄し、裁判抜きで処断します
帝国内でのアルメニア人の不満は1894年、ついに爆発しました
武装したアルメニア人とオスマン帝国の正規軍がサヌーン地方で衝突し、アルメニア人を虐殺したのです」
「虐殺きたー!」
「虐殺=末期政治の証拠みたいなものですが、これに黙ってる英国じゃありませんよね」
「そうだな、選挙に負けるしな」
「即座に国際世論はわめき立ち、保守党が政権をとって人道的立場に目覚めたイギリスはアルメニア人保護をようやく考え付きました
しかしです、オスマン帝国、ロシアともにアルメニア人の民族自立は認められないものでしたし、他の列強は興味すら示しません
イギリス単独で動いてもよかったのですが、密約を疑われたら外交的立場を失います
結局、スルタンが迅速に処理したこともあり、アルメニア人とクルド人の衝突で片付けてしまったのです」
「あらら…これじゃまた自由党に政権奪われるわね…」
「事件は1895年のイスタンブールでおきました
アルメニア人革命家がデモ隊を武装させ、アルメニア総主教の元に詰め寄せたのです
そして総主教に、剥奪されたアルメニア人の権利の復活をスルタンに迫るよう求めました
自由か死か
早まった真似はするなと総主教は説得を試みますが無駄でした
武装したデモ隊を鎮圧しようとした帝国軍と衝突し、イスタンブールのトルコ人はいっせいにアルメニア人商店を襲撃しました
ただちに各国はオスマン政府に事態沈静化を求めますが、混乱を理由に政府はこれを無視
情報は尾びれ背びれがついて、アルメニア人がトルコ人に対してテロ活動を行ったと、帝国内を駆け巡りました
そしてイスタンブールでのアルメニア人虐殺を機に帝国東部ではアル� �ニア人殺戮が波及します」
「まあトルコ人から見たらアルメニア人はテロリストみたいなもんだろうけど
一斉にツケが回ってきた感じだなあ」
「放っておいたオスマン帝国にも責任はありますし、見て見ぬふりした列強にも責任はありますね」
「結局、アルメニア人の非暴力非服従に付け込んだオスマン帝国が限度を超えてやりすぎたおかげで、大爆発したみたいですね」
「(非暴力非服従も英国みたいな紳士ぶる国になら通用するのかもしれませんけどね…)」
「ところがスルタンは英国との外交の味をしめ、援助しないなら事態を沈静化しないなどとぬかしました
英国は援助の予定はあるが、事態沈静化が先と主張
これに、今度の出来事はアルメニア人のテロ活動によるものとスルタンが主張
結局95年から96年にかけて虐殺は続き、その犠牲者は10万とも5万とも言われています
西欧の調査により虐殺は組織だって行われ、一説にはアブドゥルハミト2世の命令だったとも噂もありました」
「本当にお荷物だな、オスマン帝国は…」
「かつて強国だったオスマン帝国との外交は、ガラスの球の投げあいに例えられていました
向こうが強く投げてもこちらは強く投げ返せない、そしてその球を地面に落としたらお終い…
その外交体制はオスマン帝国が弱小化しても続いたようですね」
「強気一辺倒の外交にオスマン帝国が慣れてしまったというのもありますね
同じような国が清国ですが」
「どっちもプライドだけは高いな!ややこしい国どもだな」
「96年にはアルメニア人テロ組織により、イスタンブールのオスマン銀行が襲撃されました
この銀行は西欧がオスマン帝国を支援する為に作られ、帝国の商業に貸し出しが行われていた銀行です
テロ組織はアルメニア人の権利回復と、地方の軍を西欧の官吏が監視することを要求しました
オスマン帝国と西欧列強に対してです
もし要求が飲まれなかった場合は、銀行内の金や書類とともに自爆すると脅して
彼らは大国の注目を浴びればよいと考え身の安全とともに銀行から立ち去りましたが、同夕刻にはイスタンブールにおいて再びアルメニア人への殺戮がはじまりました」
「どうせ今度も強く出れないんだろ、列強は…」
「英国では国民世論は高ぶり、対トルコ外交強硬派が台頭しました
オスマン帝国に即時改革を要求し、それが受け入れなかった場合にはボスポラス海峡にロイヤルネイビーを派遣してスルタン退位を迫れ!
しかしここでオスマン帝国に対する影響を強めたかったロシアが出てきて、英国の動きを牽制しました
更にオスマン帝国の債務の半分を保持していたフランスがロシアの動きを牽制し、行政改革要求は頓挫します」
「どの国もオスマン帝国がなくなったらとんでもないことになるのね
投資が全部パーになるし、軍事均衡が崩壊するし、なんて厄介な国なんだか、オスマン帝国」
「その実、アブドゥルハミト2世は優秀であったという評価もあります
対外ではそういう列強の思惑を巧みに利用し、対内ではスパイ網を張り巡らせていました
あらゆる陰謀は計画段階で発覚され、あらゆる暗殺計画は未然で防がれていたのです」
「優秀とキ印は紙一重ということですなー」
「センパイ、それはギリギリグレーゾーンの発言ですよ」
「そうだろ?世の中には神の声を聞いたとかぬかした人間が、偉人って言われてるし」
「いやあの!我らが預言者だけはガチです!ほんとに言葉足らずですんませんっす!」
「(善意の宗教とカルトも紙一重ですね…)」
「20世紀初頭、このようなオスマン帝国の態度に内部から革命の動きが起ころうとしました
1904年に帝政ロシアが極東の日本に敗れたのです
これには全欧に激震が走ります
東方の島国があのロシア帝国を撃破したということは何を示すのか!帝国主義が終わり、立憲政治の国の時代が来たのだ!
未だに時代遅れの専制政治を行うスルタンを打倒しよう!
さもなければ暴走を続けるオスマン帝国は列強に分割統治されるだろう
そして1908年、エンヴェル・パシャを中心にした青年トルコ党革命が勃発しました」
「伝説の日露戦争ですね」
「皇国の興廃、この一戦にありっっっ!!!」
「ははは…よくやりますよね、東郷ごっこ」
「東郷ごっこ?」
「歴史燃え燃えな方々がよくやる、脳内連合艦隊が嫌いな国をふるぼっこにする遊びです」
「それって妄想じゃねえの?」
「アッラーフアクバル!」
「あれは脳内サラディンごっこ、脳内サラディンがエルサレムをふるぼっこにする遊びです」
「実際やってそうな奴いっぱいいそうだな、それ…なんか脳内末期だねえ…」
「脳内でエルサレムをふるぼっこし、すっきりしたところで話を進めましょう
青年トルコ党による革命成功時、誰もがイスラム教徒とキリスト教徒の友好復活を待望したでしょう
議会民主主義が誕生し、アルバニア人やギリシャ人がトルコ人に議会で意見出来る日が来たのです
しかしわずか一年も立たずして、アルメニア人は再び絶望します
それが革命の指導者エンヴェル・パシャの汎テュルク(トルコ)主義によるものでした」
「パンツ脱ごう?」
「どこをどー読んだらそう読めるのですか…人様のネタをパクらないでくさだいよ…」
「で、何?汎トルコ主義って」
「つまりはイスラームのウンマ(集合体)ではなく、テュルク系民族で国家を作ろうという主義です
中央アジアのテュルク系民族を集結させオスマン帝国の再建を目指すものですね」
「きたー!ばりばりの誇大妄想!」
「ええ、誇大妄想で現実離れした考えです
この考えに愛想を尽かし、青年トルコ党を離れた中にはあのケマル・パシャの姿もいました
権力を確保した青年トルコ党は汎トルコ主義を大々的に主張しました
少数民族の同化政策を推し進めオスマン帝国の権威を復活させた後に、中央アジア全域に渡るトルコ人の統一国家建設を果たす
折りしも伊土戦争によりイタリアにリビアを奪われ、バルカン諸国はトルコ人を締め出しはじめました
これら対外の危機もあり、1912年に青年トルコ党は軍事力と買収で総選挙を大勝し、完全に権力を掌握しました」
「トルコも赤いスルタンに誇大妄想狂に、後半になって愉快な人材ラッシュに突入したな!」
「(誇大妄想ではなく、ばりばりの愛国心が為せる主義なんですけどね)」
「アルメニア人の立場は更に一層悪くなり、列強は再び行政改革を帝国に迫りました
しかし内政干渉を嫌うオーストリア、オスマン帝国の分裂を避けたいドイツ、自国のアルメニア人への影響を懸念したロシア
大国の思惑が再び重なり合い、アルメリア問題は再び棚上げされました
それでも1914年には折り合いがつき、オスマン帝国東部に列強の民族紛争監視員が派遣されることになりましたが
その決定が覆る大事件が勃発しました」
「ん?1914年に何が起きたんだ?」
「第一次世界大戦ですね
トルコはオーストリア、ドイツの三国同盟として連合諸国に宣戦布告しました」
「行く伊予ミカンで世界大戦だな!」
「なんすか、その年号の覚え方…センパイ、もう受験しないからっていい加減なこと言わないでください」
「ところでなんでドイツ?」
「オスマン帝国はドイツから多大な援助を受けていたのです
ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、バグダットを結ぶ経済支援、通称3B政策です
おかげでオスマン帝国は近代化を成功させ、近代軍隊も成立しました
エンヴェル・パシャは汎トルコ主義完遂の為、ドイツ・オーストリアの同盟側に立ち、ロシアに宣戦布告しました」
「敵(ロシア)の敵(ドイツ)は味方だな」
「大人しくイギリスと仲良くしてればいいものを…」
「エンヴェル・パシャ自らが率いたオスマン帝国軍精鋭部隊はコーカサス地方へ侵攻し、アフガン・インド地方を突こうとしました
汎トルコ主義にとって、中央アジアこそもっとも攻略すべき地域ですからね
しかしロシアの冬将軍の到来によりコーカサスの帝国軍は文字通り凍りつきました
コーカサス戦線は兵力の80%を失い、大惨敗を喫したのです」
「はい、オスマン帝国終了〜」
「エンヴェル・パシャはそこまで優秀な軍人ではなかったようですね」
「やっぱ誇大妄想狂が指導者になるとお終いだな」
移民の排他的な行為は何ですか
「エンヴェル・パシャはカリスマと理想だけでのし上がった男ですからね」
「(人気があればどんな男でも指導者になれる…それが民主主義の恐ろしいところ…)」
「でも、その民主主義が今一番いい手なんだから、仕方ないよなあ
極端な話、ギレン=ザビもどきが合法的に権力を握れる制度だけど」
「戦闘は世界が体験したことのないほど長期化し、莫大な兵力と資源が投下されました
国力で劣る同盟側は長期戦に耐えられず、シュリーフェン・プランも頓挫し、コーカサス戦線も苦戦続きでした
1915年、ロシアのコーカサス戦線大攻勢を支援する為、英国はダーダネルス海峡制圧・イスタンブール占領を目標にロイヤルネイビーを動かします
あのチャーチルが熱心に主張したガリポリ上陸作戦の発動です
この戦いで帝国軍を率いたケマル=パシャは高地をいち早く陣取り、連合軍に多大な損害を与え、ついには撤退させました
露土戦争以来勝ち知らずだった帝国が英国に一矢報いた出来事は、オスマン帝国内でのケマルの人気爆破に即繋がりました
ケマルは大戦終了まで見事な統率� �を見せ、国家の英雄になったのです」
「ケマルの統率力はよかったのか?」
「ええ、ケマルは軍人としても政治家としても優秀でした
そしてガリポリの戦いのおかげで、国内での人気はエンヴェルを抜き放したのです」
「しかしこのガリポリの戦いで帝都自身の危機が明らかになると、コーカサス戦線から兵力が引かれます
するとロシアの名将ユデニッシ将軍が戦線を再構築し、大攻勢を仕掛けました
帝国軍は、アルメニア地方から全面撤退を余儀なくされるほど完敗したのです
いままで虐げられたアルメニア人はこれに呼応して立ち上がり、ロシアに協力して各地でゲリラ戦を仕掛けました
しかしこの事が敗戦濃厚のエンヴェル・パシャを狂わせました
1915年4月、反乱鎮圧を名目にアルメニア人大虐殺が起きたのです
アルメニア地方からシリア砂漠への強制移住に始まり、残虐極まりない虐殺が各地で行われたと記録に残っています」
「ほんと、エンヴェルのおっさんはろくなことしないよな…」
「(そしてこの軽率な行動が、後のトルコに暗部を残したのですね)」
「虐殺のニュースはただちに世界を駆け回り、アメリカが特にそれを批難しました
欧州各国には親アルメニアの人々が急増し、アルメニア問題はようやく世界問題に発展したのです
しかし時代は第一次大戦真っ只中、国際的批難をしている暇はありません」
「まあ黙ってても勝てますし、批難は勝ってからでもいいですよね」
「一方、ガリポリの英雄ケマルは崩壊寸前のコーカサス戦線に赴き、ここを立て直して国境付近までロシア軍を押し戻します
そのまま戦線はケマルとユデニッシの間で膠着しましたが、1917年の出来事は衝撃的でした
帝政ロシアの崩壊、そして第一次世界大戦により経済は破綻し戦争は続行不可となり、ポリシェヴィキの11月革命です」
「アカきたー!」
「恐怖の大国の誕生ですね」
「しかし誕生間もないソ連は戦争をする力がありません
そしてケマルは、敵軍無きコーカサス戦線で大戦果をあげること出来ずにシリアに左遷させられました
エンヴェル・パシャがケマルの人気に嫉妬したのです」
「ほんとどうしようもねえなおっさん…」
「しかしケマル不在でもコーカサス戦線は楽勝でした
なにせ敵がいないのですから
第二軍の攻勢はカスピ海沿岸までの進出を果たします
このままでは世界赤化計画は発動を待たずして終わる
そう考えたポリシェヴィキのレーニンはブレスト=リトフスク条約を締結し、1914年開戦まで遡ってコーカサス地方をオスマン帝国に返還しました」
「ん?そのままソ連をぼっこぼこにすりゃいいだろ?」
「センパイ、敵はロシアだけではありませんよ…西部戦線は崩壊寸前でしたしね」
「これに憤ったのはコーカサスの諸民族です
結局ロシアはコーカサスの民族より革命の勝利のほうが大事なのか
コーカサス諸民族連合ははオスマン帝国と停戦条約を結んでロシアより独立する方針を決めました」
「同じ悪なら赤くないほうを選ぶ、ですね」
「もちろん強気のオスマン帝国は、停戦条件にアルメニア地方の大々的割譲を突きつけます
アルメニア人は大反対し、アルメニア地方に篭ってオスマン帝国軍と戦うつもりでした
しかしアルメニア人を見限ったコーカサス諸民族連合は、先ずアゼルバイジャンが、グルジアが続いて独立したのです
こうなるともはやオスマン帝国の提案をのんで独立する道しかありません
1918年ここにアルメニア共和国が誕生しますが、最悪の船出でした」
「なにせ強気の老人と赤い悪魔に挟まれてる立地だしなあ」
「同年、オスマン帝国は連合側と停戦を受け入れます
しかし帝国軍の解体は行われませんでした
中央アジアに残った帝国軍主力はソ連の脅威として存在すればいいし、関心はボスフォラス・ダーダネルス海峡でしたから
ともあれ帝国軍の脅威から解放されたアルメニア共和国に、欧米列強はさっそく援助の約束をしました」
「ようやくアルメニアに援助の手が差し出されるのか」
「うーん、イヤな予感ぷんぷん漂ってますけどねえ」
「ええ、国際感覚のまるでなかったアルメニア人の外交態度が悲劇を呼びました
1919年、第一次世界大戦終結の後始末としてパリ会議が開かれました
もちろんアルメニア共和国の代表も出席しました
が、ここでアルメニア代表は連合側が驚く提示を行ったのです
それが大アルメリアの領土要求でした
アナトリア東部とキリキアを要求したアルメニアの世界常識の無さに、各国は唖然としたのです」
「…戦勝国でもないのに、こんな事要求するなんて」
「もちろんこんなの認めたら、オスマン帝国は反発するだろ」
「そうですよ、世界大戦終了後の西欧列強にとって一番の関心事はソ連ポリシェビキの台頭
その為にはオスマン帝国を生かさず殺さずにしておこうと西欧が考えることは目に見えてますし」
「そこに大アルメニア復活なんてありえません
連合側に一笑されたアルメニアは、結局同情風の吹くパリ会議においても相手にされなかったのです
しかもグルジアとの国境問題が噴出しました
オスマン帝国軍牽制の為アルメニア共和国領内に駐留するグルジア軍撤退を要求し、紛争に発展してしまったのです
連合側は呆れて仲裁に入りましたが、アルメニアは国際的信用をここで失いました」
「争えばアカにつけこまれるってことぐらいわからんのかねえ」
「アルメニア共和国は一刻も早く大国の庇護下に入ることにしました
その国はもちろんイギリスが望ましいですが、イギリスはコーカサスから撤退し、アメリカへたらいまわしにしましす
そのアメリカも他国の複雑な外交事情に巻き込まれたくないのと、アルメニア復興に7億ドルかかるということで、非干渉の議決が下されます」
「その点日本はお人よしだねー」
「(褒められるどころか批難されてますしね)」
「1920年にはオスマン帝国とソ連の接近を防ぐ為、連合国はコーカサス諸国の独立を容認
しかしソ連は共産主義者が急増したアゼルバイジャンに侵略するとこれを併呑し、アルメニア国内にも共産主義者が流入してきました
事を急いだ連合側はオスマン帝国側にセーヴル条約を叩きつけ、アルメニア独立をオスマン帝国に認めさせました
この条約ではアルメニアは黒海沿岸まで領土を獲得出来る、破格の条約でした」
「おお!ん…でも今の地図見たら、黒海沿岸はトルコ領だが?」
「実はこのセーヴル条約は施行されなかったのです
パリ会議が長引き、連合側の干渉が無かった隙にオスマン帝国内で激動の出来事がありました
それがケマル・パシャのトルコ独立戦争でした」
「ケマルきたー!」
「解散されなかった軍隊を掌握したケマル・パシャはソ連と繋がり、連合側へ抵抗運動を見せました
セーヴル条約は祖国存続の為に承認する訳にはいけません
そしてその力を内外に示し反連合の友好国ソ連と接近する為中央アジアへ進出し、アルメニア共和国へ侵略しました
理由はどうとでもつけれます
アルメニア共和国内でのトルコ系民族保護を名目に、トルコ軍はアルメニア諸都市を攻略
アルメニア共和国がソ連に泣きつくと、ソ連はセーヴル条約を破棄して連合側から離れよ、と非情の通告をします
内閣が決定をしぶっている間にトルコ軍は首都に迫り、アルメニア共和国はトルコに降伏しました」
「ま、アルメニアの人々には悪いけど、悲しいけどこれ戦争なのよね…」
「セーヴル条約はそんなに酷い条約だったのか?」
「ええ、事実上の帝国解体通告でしたから
イズミルやバルカンの帝国領はギリシャへ、アナトリア南西部はイタリアとフランスが占領
シリア・エジプトが保護国に、アラブとアルメニアが独立し、更に莫大な賠償金を突きつけられ、関税自主権が剥奪されます
連合はソ連の台頭に焦り、譲歩という言葉を忘れ、非道な条約を突きつけてしまったのです」
「同じような内容のヴェルサイユ条約をドイツも受けましたよね
ですがドイツに無くてトルコにあったものがあったのです
それがケマルという存在でした
敗戦の中ただ一人連合国に一矢を報い国家的英雄となったケマルは、決死の覚悟で立ち上がりました
セーヴル条約を認めればトルコの歴史はドイツと同じ末路を辿ったのかもしれません
もしかしたらファシズムが台頭し、独土日三国同盟が完成していたかもしれません」
「(それはそれで愉快なのですがー)」
「国家が国家として在り続ける為に、ケマルは国民とともに立ち上がったのです」
「ケマル燃えー!」
「ケマルは態度を決めかめているアルメニアに通告しました
『アルメニア共和国は国際連盟加盟国全てが見捨てた
ソ連は不凍港獲得の為だけにアルメニアを併合し、復興には何の興味も示さないだろう
アルメニア共和国を救えるのはトルコだけである』」
「よー言うわ、散々いじめといて」
「でも言っている事は正確ですよ」
「ソ連とトルコ、どっちの悪につくかで揺れていたアルメニア共和国
しかし悩んでる隙に赤軍がアルメニア共和国に侵入し、アルメニア東部は赤く染まりあらゆる自由が剥奪されました
早々にトルコに無条件降伏していればまだよかったものを、トルコはソ連が来た以上アルメニアから撤退します
ソ連は政府に無条件降伏を迫り、それにしぶると投獄したアナトリアの指導者を見せしめに惨殺しました
こうしてアナトリア共和国の2年間の自由に幕は降り、ソ連邦の一部として歩み始めたのです」
「ほら言わんこっちゃない…」
「一方、アンカラにて臨時政府を立てたケマルは、火事場泥棒にきたギリシャ軍を一蹴し、その実力を連合側に見せ付けました
更にキリキアを秘密条約で確保していたフランスを追い出し、連合側の中東支配は大きく揺るぎます
そして戦勝国であるはずのフランスが敗戦国であるはずのトルコに休戦を求める異例事態がおきました
ケマルの力を認めざるをえなくなった連合側はついにローザンヌ条約を締結しました
トルコはアラブ・キプロス・エーゲ海の島々を放棄する代わりに関税自主権と軍事・財政への非介入、戦後賠償金反故など勝ち得たのです
そしてスルタン制を廃止し、ここにトルコ共和国が誕生しました
更にアルメニア人虐殺に関わった俗に言う戦争犯罪人を全員 無罪にすることにも成功しました
これに怒ったのはアルメニア人で、結局アルメニア人虐殺に関わった人間は尽く殺されてしまいましたが」
「ケマルの外交手腕は素晴らしいものがありますね」
「中東の石油とソ連の動きを利用し、巧みに第一次大戦の外交を乗り切ったのです
そして懸念されていたアルメニア人虐殺問題は、連合が中東の石油を確保する為に棚上げされました
石油はアルメニア人の血より重い、とはイギリスの政治家の言葉です」
「うわー、リアル利根川先生出たよ」
「その後、ドイツにてナチス政権が誕生し第二次世界大戦が勃発すると、トルコは中立を維持しました
汎トルコ主義の若者は枢軸に立ってソ連に宣戦布告すべきだと騒ぎ立てましたが、その動きを抑えます
そしてイタリアが降伏し連合の勝利が濃厚になると、トルコはドイツと日本に宣戦布告します
ソ連はトルコ共和国誕生後、コーカサス地方完全征服の為にアルメニア地方完全譲渡を迫っていましたからね
案の定第二次世界大戦終戦直前にはソ連がトルコに、アルメニア地方を要求しました
これにトルコは連合国として参加したのだから、と批判したのがイギリスのチャーチル首相でした」
「チャーチルはアカとフデ髭を一切信用してませんでしたからね」
「逆に米国のトルーマンは、ソ連とトルコの紛争程度にしか思ってませんでしたが」
「はは…トルーマンはこれだから冷戦招いちゃったんでしょうが…」
「なんだか複雑だなー、トルコとソ連はつい最近まで友好国じゃなかったのか?」
「アカは嫌い、でも敵の敵は味方は20世紀の外交標語かと
ただイカれた国と手を組んでいたら、何時か赤化しますし
ソ連の支配したコーカサス地方の惨状は、国境沿いに聞こえてきましたしね
なにせコーカサス地方はあのベリヤの管理下にありましたから」
「ベリヤ?なんか危なそうな話になるから詳しくは聞かないことにするわ」
「第二次世界大戦後、世界はチャーチルの鉄のカーテン演説とともに冷戦構造に突入します
もちろんオスマン帝国のアルメニア人虐殺を訴えるアリメニア人の声はかき消されました
1980年代ソ連がアフガン戦争で経済を破綻させ、1985年にゴルバチョフ書記長はペレストロイカを宣言しました
バルト三国を始め、コーカサスのグルジアやアゼルバイジャンは次々とソ連邦から独立を開始します
ここでアルメニアは独立を躊躇しました
トルコが西欧と対等な立場で物を言えるほどの大国になっていたのです
更に、経済もソ連に依存しなければいけないほど緊迫していました
しかも社会主義の下、アルメニアには多数の工場や原子力発電所があり、国土はいちぢるしく汚染されていたのです」
「ソ連は自国内のカザフで核実験やったり、チェルノブイリ原発で放射能ばらまいてますからねー」
「しかしアルメニアにはアゼルバイジャンとの国境問題がありました
ナゴルノ・カラバフ問題です
ソ連編入後、アルメニア人拡大を恐れたスターリンはアルメニア人の土地だったナゴルノ・カラバフ地方をアゼルバイジャンに組み入れてしまったのです
ソ連邦が崩壊しクレムリンの権威が低下した今、ナゴルノ・カラバフ地方は再度アルメニアへの編入を望みました
しかしアゼルバイジャンがそれを認めるはずがありません
そうなるともはや戦争しかありません
1991年、アルメニアはソ連から独立しアゼルバイジャンと戦争を繰り広げます
トルコは同じイスラム教徒(シーア派ですが)であるアゼルバイジャンを支持し、東の紛争地帯と化しました」
「国土が興廃して、おまけに領土問題とは…」
「ところで1980年、欧州各地で、トルコに対し第一次世界大戦下のアルメニア人虐殺問題を追求する動きが活発になりました」
「なんで突然欧州はトルコを批難しはじめたんだ?」
「トルコが1960年から欧州、つまり欧州連合に参加したがっていたからです
トルコは第一次世界大戦で少数派の同盟側についたことを猛省し、多数派につく方針を固めました
NATO北大西洋条約機構やOECD経済協力開発機構にも積極的に参加しました
これを快く思わないのが欧州連合の各国です
いくらトルコが政教分離、世俗主義をとったとは言え、トルコはイスラーム圏の国です
イスラーム圏の国の参加はヨーロッパとして認められない
しかもトルコの人口は1億人を超えており、EUに参加した場合、トルコはEUの中で一番の大国となります
そうなると人口の面からトルコはEUに対し大きな影響力を持つと考えられております」
「オスマン帝国時代にいじめられた国がトルコの参加をしぶっているのもありますね、特にギリシャ」
「なんだかなあ、アルメニアのことはいままで散々たらいまわしにしたくせに」
「アルメニア人虐殺問題は欧州だけでなくアメリカに飛び火し、アメリカはジェノサイドのあった4月24日をアルメニア人追悼記念日に設定しようとしました
これに怒ったトルコはNATO脱退をちらつかせます
中東は新しい火薬庫としてアメリカの悩みの種と化し、アメリカにとって中東の親米国を失うのは戦略的にまずいことになります
結果アメリカは現在までアルメニア人虐殺問題をトルコ側に立って擁護する立場にいるようです」
「まあキリスト教とイスラム教の対決構造は作りたくありませんからね…
サウジやトルコ、エジプト、パキスタンがアメリカ寄りでなくなったら、その時点でキリスト教とイスラム教の戦争になりますし」
「1980年を境に、アルメニア人虐殺問題はことあるごとに欧州で問題になりました
ここで問題になるアルメニア人虐殺問題とは第一次世界大戦下におきた虐殺の事を指します
それが民族主義の下で行われた組織的虐殺、民族浄化ではないか?ということです」
「ナチのホロコーストみたいなもんか」
「はい?ホロコースト?なんですか、それは」
「貴方は!シオニストどものプロパガンダを信じているのですか!
ホロコーストなどシオニストどもが聖地を簒奪するためにでっちあげたプロパガンダにすぎませんっ!」
「はあ、おっさんはそういう立場すか…リヴィジョニストは怒られんぞ、まじで…」
「まあこの際ここでホロコーストはあったということで落ち着きましょうよ…真っ赤な顔した大人に怒られたくありませんし…」
「一方ジェノサイドなんて認めるわけにはいかないトルコ共和国は、このような見解を示しています
多くのアルメニア人が犠牲になってしまったのは前線崩壊に伴う混乱下における不幸な出来事だった
また処刑したアルメニア人はロシアのスパイに限定されていた、と」
「なんでトルコはジェノサイドを認めないんだ?さっさと謝ればいいだろ?」
「ジェノサイドを認めた瞬間、国際的権威を失墜するからです
そして虐殺問題は大きな外交カードになる可能性が非常に高いです
あったにせよなかったにせよ、虐殺問題は否定から入らないと国益を損なうのです」
「(ま、それ以前に根拠も無いのに極端に膨らんだ数字を突きつけられて、信じろって言うほうが野暮ですが)」
「あのー、エル、大丈夫か?その、なんだ、色々」
「信頼度のない数字こそ敵が焦っている証左なのです!政治色の混ざった情報に真実はなし!」
「いや、おっさんは元から大丈夫じゃないってのは、わかってるけどさ
てか、あんた情報に宗教色入れてる張本人じゃん」
「エクセルさんっ!私の情報のどこに宗教色が混じっていると言うのです!アレですな、もう!」
「だああ!お師のお言葉に偽りなしです!ですからご堪忍をー!」
「はいはい、話が重いですから、ここいらで話の腰折りですね」
「日本と違い腹黒いトルコはこの問題を勿論認めません
EU参加を国策にしていますし、それにアルメニアが主張しているアナトリア東部を要求されるかもしれませんしね」
「しかしここで大事なのはアルメニア人の虐殺自体は本当にあったところです
問題はトルコ軍が関与したのか、それが民俗浄化だったのか、虐殺された人数は何人なのかなのです
エンヴェル・パシャがアルメニア人を排斥する意思を固めていたのは事実ですが、トルコは戦争被害として組織的虐殺を否定しています」
「しかしトルコはあったことを必死に否定してるのに、なんで某国はなかった(かもしれない)ことを簡単に認めちゃうんだ?」
「トルコは第二次世界大戦の戦勝国、某国は第二次世界大戦の敗戦国、だからじゃないですか?」
「(もしくは指導者が平和主義者)」
「この問題は現在進行形で続いています
オランダではアルメニア人虐殺問題を否定したトルコ系の候補者を選挙に出さないようにしました
フランスではアルメニア人虐殺問題を否定しただけで禁固刑に処すという驚きの法案が通りました
私は今ここでアルメニア共和国の主張、トルコ共和国の主張、どちらが正しいか結論付けることは出来ません
歴史家や研究家が議論を続け、史実を導き出せばよいのです
問題は自由主義を謳う欧州で言論封殺が行われたという所まで来ました」
「まあ言論の自由とか言ってるけど、今でもハイルってやったら逮捕される国もあるしなあ」
「しっかしバルカンの国々でトルコ人がどれほど殺されたのかと、小一時間(ry
カエル野郎もアホというか、おフランス的にやってるんでしょうけど、あんたら植民地で(ry
アナトリア人も死んだけどトルコ人も死んだ、なんもやってこなかった欧州に口出す権利があるのかと(ry」
「歴史というのは国の都合により変わる、というのは戦後日本が一番体験したでしょう
しかし自由で開かれた歴史の議論が妨げられる状況は最悪でしかありません
実際アルメニア人の中でも、純粋に歴史の真実をトルコに求める人々がいます
虐殺問題をネタに領土を求める気でもないし、国際的にトルコを追い詰める気もない人々です
そんな中、2007年、アルメニア人虐殺問題を取り上げると同時にフランスの強硬姿勢を批判したトルコ人ジャーナリストが殺される事件がありました
犯人はトルコの極右派です
現在もアルメニア人虐殺問題は欧州とトルコの軋轢として、くすぶっています
その背後には様々な国際情勢が渦巻いており、キリスト教とイスラム教の対立� �その中に含まれています
この問題は今の欧州情勢を把握するために、必要不可欠なものなのです」
「自由で開かれた歴史の議論?おっさん、それをキリスト教は絶対悪だとぬかして妨げてるの、あんたじゃん」
「エクセルさん!師に向かっておっさんとは!それに私が自由な議論を妨げてるですと!むきいいいいいい!」
「はわー!お師匠様、ごかんにんをー!」
「勿論、ここに出てくるイスラム教のイマームっぽいおっさんはフィクションです
というかこんなイマーム、現実にいるっぽいけど…一応、ね」
「(この問題は、そして世界の多くの飢餓・虐殺問題も、見てみぬ振りのツケとしか思えません
そしてツケが周ってきたら、日和見の人道主義者が一斉に当事者を叩く
いや、日和見ならまだいいものも、一緒に混じって迫害に加担していた連中がいるから、なおタチが悪いですね
国際政治が絡んで中立的な議論すら出来なくなったアルメニアの問題は悲劇でしょう
私達がこの問題に学ぶことは一つ
現在進行形で起きている世界の悲劇を見てみぬふりをしてはならないということ
それを知り、背景を理解し、声を上げ続けなければならないということ
なにせ起きてしまった後に中立的な議論や調査を行う難しさは歴史が証明していますから)」
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