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| 独立式典とルムンバの演説 |
| コンゴー動乱の始まり |
| ベルギーの出兵とカタンガの分離独立 |
| 国連軍の介入 |
| ルムンバの決断と挫折 |
ついに約束の6月30日がやって来ました。前日の29日にはベルギーのボードワン国王がレ
オポルドヴィルに到着しました。ンジリ空港では国王の優しい人柄からしてコンゴ側からも丁重
な出迎えを受けました。でも、国王は、1955年に訪問した際の歓迎の熱烈さと何か違うものを
感じていたはずです。
独立式典はコンゴ河沿いの高級住宅地区カリナに建てられたパレ・デ・ナシオン(国家宮殿)
で行われました。この建物は植民地当局が総督府と総督官邸として新たに建設したものを、急
遽独立のタイミングに合わせて国家宮殿として改装し、国会議事堂として使えるようにしたもの
です。入り口の広場には馬上のレオポルド2世像が建てられています。
式典の当日となって、ボードワン国王はルムンバ首相の演説の内容についての情報を聞かさ
れ、非常にショックを受けました。しかし、自らの演説の内容を修正する余裕もなかったのです。
側近たちが書き上げた演説原稿は温情主義的な言葉に満ちたもので、国王は、コンゴを植民
地として築き上げたレオポルド2世に賛辞を捧げ、それ以来の植民地政策が、現地の人々の
文明開化をもたらしたことを強調し、ベルギーが築き上げた素晴らしいコンゴの国を、コンゴの
人たちが立派に引き継いでくれることを願う趣旨の内容でした。
これに対しカサヴブ大統領は、ベルギーが独立を与えてくれたことに謝意を表することを基調
とした演説を行いました。彼はルムンバが過激な演説をすることをうすうす感じて、何とかルム
ンバを牽制しようとしたのです。
それにも拘わらず、パトリス・ルムンバが始めた演説は過激で、挑戦的であり、独立とは植民
者から有難くいただいたものではなく、自分たちの力で血を流して勝ち取ったものであると言い
放ちました。ルムンバの言葉は、国家宮殿を埋め尽くしたコンゴ人の政治家、各界と各地域の
代表者たちの民族意識に火をつけました。曰く、「80年間の植民地体制の下にあった我々の
運命がどのようなものであったにせよ、我々が受けた傷は余りにも痛ましく、苦悩に満ちたもの
であった。我々はそのことを記憶から消し去ることができない。我々は過酷な労働を要求され、
その代償にもらった賃金では、飢えを満たすことも、着飾ることも、人間らしい家に住むことも、
愛すべき子供を立派に育てることもできなかった。我々は朝に、昼に、夜に、皮肉られ、侮辱さ
れ、殴打された。それは単に、我々が《黒人》であったからである。人々が黒人を《君》(*1)呼ば
わりするのを誰が忘れられようか。それは、友人に対する親しみを込めた《君》ではないからで
あり、尊敬を込めた《あなた》(*2)という呼び方は、白人の間でしか使われなかったからであ
る。 (中略) 我々は、兄弟たちが殺される銃殺の場面や、不正と弾圧と搾取に反抗した者が手
荒く投げ込まれた監獄をどうして忘れられようか」。
これらの言葉にコンゴの人々は熱狂的な拍手を送り、歓声を上げました。予期せぬ演説の激
しさに驚いたウィニィ外務大臣は、エイケンズ首相の耳につぶやきました。「このような話は、一
国の首相がこのような時にやるべきことではないでしょう」。
ルムンバは、拍手の鳴る間に、興奮し過ぎた神経を静め、雄弁家としての理性を取り戻しまし
た。そして、演説のトーンはますます高揚したのです。ボードワン国王は、冷たい視線の中で硬
直して、ルムンバの攻撃に曝されて蒼白になりました。国王はたまりかねて、その場を立ち去ろ
うとしましたが、側近の人たちに宥められて、その場に留まっていました。
最後に、ルムンバ首相は、議会の少数派の人々に建設的な協力を要請し、我々のエネルギ
ーを浪費させ、海外での我々の信用を失墜させる部族間の紛争を、何としても避けることを願
いました。さらに、新生国家の発展に協力してくれる善良な外国人については、その生命と財
産の安全を保障すること、そして全国民に対して、コンゴの経済的独立を達成し、国民経済を
繁栄させるため、皆が仕事に励むよう要請して、演説を終えました。演壇を下りながらも、激し
い拍手は3分間以上続き、人々の歓声は鳴り止みませんでした。
どのように多くの人々はバム地震で死亡しましたか?
ベルギー側は、ルムンバがこれほど過激な演説をするとは思いも寄りませんでした。翌日ベ
ルギーの新聞は、右から左に至るまで一斉にルムンバ首相攻撃の記事を掲載し、ルムンバが
ベルギー人を傷つけるような言葉を吐いたことを非難し、国王と同行の関係大臣たちに忘れる
ことのできない悲しい思い出を残したことを書き立てました。そして、余りにもひどい言葉に国王
と大臣たちは予定を変更し、直ちに帰国の途についたと報じました。
ルムンバは独立に多くのことを期待していた国民に、熱い思いを呼び起こしましたが、現実に
この独立によって何が変わるのか、このことに国民は思いを馳せました。首相は、植民地から
の真の開放を叫んだのですが、残念ながら、彼の政策を具体化する能力のある行政官も、そ
の政策を実施する予算も持っておらず、治安を維持する警察と公安軍も、未だにベルギー人の
指揮下にありました。
その一方で、これからも実質的支配を続けようと考えていたベルギー人たちにとって、ルムン
バは大きく立ちはだかる邪魔者であることが明らかになりました。ベルギーにとってだけでなく、
反欧米的に傾いていくルムンバの言動をフォローするCIAの観察者にとっても、彼は抹殺され
るべき人物になりました。
パトリス・ルムンバが幸せだったのは、独立に続く数日間だけでした。その僅かな間、数え切
れない反対派との抗争の悩みを忘れ、国民的統一という大儀の下に集まってくる人々から祝
福を受けていました。そして、この有象無象の人たちから新しい国作りのために働く場をせがま
れるのでした。この人たちを兄弟として受け入れ、その面倒をみるのが、アフリカではリーダーと
しての義務であり、これは誰も拒めない伝統的なルールでした。
国際的にも、ルムンバは植民地解放の闘士として脚光を浴び、独立式典における熱烈な雄
弁さによって、アフリカのみならず、全世界にその名を知られるようになりました。
式典の翌日の7月1日、ルムンバ首相は、国連のダグ・ハマーショルド事務総長にコンゴの国
連加盟を申請する電報を打ちました。国連総会では、この加盟問題を直ちに取り上げ、その審
議の中で、多くの国の代表が賛成の演説を行いましたが、特に、ソ連と安保理理事国であった
チュニジアの代表の演説が注目を浴びました。
ソ連のモロゾフ代表は、植民地主義そのものと旧宗主国の残酷な弾圧を非難し、コンゴの独
立が帝国主義の終焉を意味するものであり、資本主義の没落につながるものと決めつけまし
た。
チュニジアのスリム代表は、アフリカの穏健派を代表するものであり、新しい独立国の権利擁
護のために闘うことは当然のこととしながらも、その中での協調と友好の大切さを指摘しまし
た。それはルムンバの過激な言動を牽制する意味もありました。
ルムンバ首相は、一息入れる間もありませんでした。独立式典から3日目にして、騒動が始ま
ったからです。先ず、公安軍の兵士たちが騒ぎ出しました。ルムンバ首相は、あらゆる組織の
中で幹部のポストにコンゴ人を積極的に登用しようとしました。しかし、公安軍と警察について
はルムンバも自信がなく、ある程度の準備期間が必要と考えていました。兵士たちは、独立と
共に政治家や政府の高官たちのみが、脚光を浴び、いい思いをしているのに、自分たちは、何
も変わるところがなく、相変わらずベルギー人将校の命令の下で働かされていることに不満で
した。
7月4日の朝、最高司令官のジャンセン将軍が一部のコンゴ人兵士に対して旧態依然とした
態度をとったことに怒った兵士たちは、その夕刻、抗議のために集まりました。彼らは軍の幹部
のアフリカ人化とジャンセン将軍の解任を要請しました。キャンプの中では興奮が収まらず、暴
動にまで発展するような雰囲気でした。兵士たちの不満の強さを察知したルムンバ首相は、急
遽主要閣僚を集め、協議を行い、全コンゴ人兵士を一階級昇格させる措置を採りました。
翌5日、ルムンバは自ら兵士たちに呼び掛けを行い、この昇格を伝えた。しかし、一階級上が
っても、その時点ではコンゴ兵の最高のランクは特務曹長に過ぎなかったので、実際上軍の指
揮をとる幹部に、一人のコンゴ人もいないことは変わりません。彼らは不満を爆発させ、武器こ
そ手にしなかったものの、軍服のバンドを振りかざして、街に繰り出しました。
ルムンバは、この昇格だけでは事態を収拾することができないと判断し、ジャンセン将軍とそ
の他何人かのベルギー人将校を解任し、コンゴ人兵士を幹部へ登用することを決めました。そ
して、公安軍の指揮系統をコンゴ人化することを決断しました。最高司令官にはジャンセン将軍
に替わり、第2次世界大戦での従軍の経験を持つヴィクトール・ルンドゥラが任命され、その参
謀本部長には、植民地時代にすでに軍曹になっていたジョゼフ・モブツが、レオポルドヴィル駐
屯部隊の司令官には、特務曹長にまでなっていたジュスタン・ココロがそれぞれ任命されまし
た。ついにモブツが軍の中で頭を出してきたのです。
何アンザック軍は食べた
これで、レオポルドヴィルを中心とする軍部の不満は一応解消されたのですが、7月6日にな
ると、この動きとは関係なく、タイスヴィル(*3)の駐屯キャンプの兵士たちが騒ぎ出しました。初
めは20人ほどの兵士が酒を飲んで、暴れだし、診療所の看護婦たちを襲いました。コンゴ人
の下士官の介入でこの狼藉は一旦抑え込まれました。しかし、夜に入るとこの暴徒たちはジー
プを持ち出し、タイスヴィルから40キロほどレオポルドヴィル寄りのインキッシのキャンプに赴
き、ベルギー人士官を脅して、武器を持ち出しました。武器を持ったらもう止めようもなく、インキ
ッシ周辺を荒らし回り、ヨーロッパ人の住居を襲い、4・5人の婦人に暴行を加えました。
この羽目を外した兵士たちの行動は、その規模や人数の点からして、ごく限られた範囲のも
のでした。兵士2万5千人の内の20人足らずが、酔っ払って起こした狼藉で、ベルギー軍の介
入を行うことは無理でしょう。しかし、この情報はベルギー軍当局によって宣伝のために誇張し
て利用され、公式情報として流されました。そのためこの情報が特にベルギー人社会にもたら
した恐怖と不信は、計り知れないものでした。コンゴ政府の代表が現地に赴き、ベルギー人た
ちの不安を静めると共に、あらゆる手段を講じて、一時的に彼らをレオポルドヴィルに避難させ
る用意もしました。独立後の治安の維持に一抹の不安を感じていたヨーロッパ人たちは、一斉
に国外脱出を考えました。
そして、その動きは、何の騒動もなく平穏だった他の州にも波及していきました。独立宣言の6
月30日に8200人いたベルギー人行政官が、8月に入った時点では、1600人に減りました。
しかも、残った大多数はカタンガ州の役人たちでした。
ベルギー政府は、パニック状態に陥った自国民の生命の安全を口実に、キトナに駐屯してい
たベルギー軍をマタディとレオポルドヴィルに直ちに移動させ、7月10日にはカミナ基地のベル
ギー部隊を乗せた10機の輸送機が、カタンガのエリザベートヴィルの空港に着陸しました。コ
ンゴ・ベルギー間の協力協定では、ベルギーはコンゴ政府の正式な要請がない限り、その軍事
活動をコンゴ国内で行うことはできないことになっていました。従って、ルムンバ首相としては、
この一方的な軍事行動をもって、主権の侵害と見なしました。
ベルギー軍のカタンガ出兵の翌日、11日には、この州の知事であり、CONAKAT党首である
モイーズ・チョンベが、カタンガの分離独立を宣言しました。この出兵が分離独立を可能にし、チ
ョンベの立場を強化したことは、疑うべくもありません。この分離独立と共に、カタンガに駐屯し
ていたコンゴ国軍の兵士たちは、ベルギー軍によって武装解除されました。
カサヴブ大統領とルムンバ首相は、国家統一の責任を重く思い、勇敢にも一緒に急遽エリザ
ベートヴィルに乗り込もうとしました。しかし、その時点では、国家元首にも首相にも国内移動の
ための飛行機は1機も用意されておらず、ベルギーの総督が使っていた専用機は、カタンガに
置かれていました。仕方なく2人は、ベルギー軍に飛行機とパイロットの提供を要請しました。
用意された飛行機は座席もない輸送機であり、そのフライトに従事したベルギー人兵士たち
は、2人を《マカック》扱いにしました。このことはルムンバが残した記録に書かれており、マカッ
クとは現地語で猿を意味する言葉であり、コンゴ人にとっては最大の侮辱でした。しかも、2人
を乗せた輸送機がエリザベートヴィル空港上空に到着すると、地上のベルギー部隊は、カタン
ガが独立国である以上、2人を着陸させることはできないというメッセージをパイロットに伝えま
した。仕方なく、カサヴブとルムンバは引き返すしかありませんでした。
従って、大統領と首相のチョンベ説得の努力は、ベルギー軍の力で完全に妨げられました。こ
の事実は、国際世論が何と言おうと、ベルギーはチョンベの分離独立を擁護するという強い意
志を表明したものです。しかし、これはコンゴの主権を明確に侵害したことになり、後になって国
際的に厳しく非難されました。
ルムンバの中央政府は14日、ベルギーとの外交関係を断絶し、ベルギー軍のコンゴよりの
撤退を求め、主権を完全に回復するために、国連安全保障理事会に提訴しました。カサヴブと
ルムンバは、不倶戴天の政敵としてこの後対立するのですが、この時点では未だ、国家統一
の大儀の下で互いに協調して、行動を共にしていました。
2人は直ちに、国連本部のハマーショルド事務総長とレオポルドヴィル駐在の国連代表ラル
フ・バンチ宛に、連名で抗議の電報を送り、国連軍の派遣を要請しました。その要旨は次のとお
りである。
「ベルギー国軍のコンゴ出兵は、我々の要請なしに行われたもので、両国間の友好条約に違
反する侵略行為である。カタンガの分離独立は、我々の国土の支配を続けようとするベルギー
政府によって仕組まれたことであり、我々はベルギー政府の責任を追及する。このようなベル
ギーの帝国主義者と一握りのカタンガの指導者による陰謀に屈することはできない。軍事的支
援を要請するのは、国際的平和を危うくする国外からの侵略行為に対して、国家の統一と国土
の保全という基本的権利を全うするためである。緊急に国連軍をコンゴに派遣されることを、
我々は強く主張する」。
アメリカから北朝鮮を呼び出すために使用するか郵便番号
このコンゴの提訴に対して、国連の安全保障理事会は、7月13日にこの問題を審議し、決議
を採択しました。一つは、ベルギーに対し、カタンガを含むコンゴ全域からその軍隊を直ちに引
揚げることを要請すること、2つには、コンゴが自らその国家の統一と治安を確保できるように
なるまで、国連として軍事支援を行うことでした。
ハマーショルド事務総長は、自信に満ちて次のような声明を出しました。「我々は歴史の新た
なページを開こうとしている。それはアフリカの未来、そして恐らく世界の未来に係わることであ
る。コンゴ派遣の国連部隊は、コンゴ共和国の全領土の上で軍事作戦を展開する権限を与え
られたのである」。
ハマーショルド事務総長は、これが新生アフリカの問題であるだけに、この国連軍の大多数を
アフリカ人の部隊にすることを決意しました。そして、中立的立場を必要とする場合のため、ス
ウェーデンとアイルランドにも部隊の派遣を求めました。ベルギーの反対にも拘わらず、翌15
日に、最初のチュニジア部隊が、直ぐ続いてガーナ部隊がコンゴに到着しました。そして、この
部隊の空輸に当たったのは、米国を初めとする西側大国でした。
国連がその決議に基づき、平和維持軍を派遣するのは、アラブ・イスラエル紛争の休戦監視
団を除けば、初めてのケースであり、国連の権威を強化するのには、絶好の機会でした。国連
はコンゴ作戦のため、莫大な費用と人命を費やし、ハマーショルド自身も、チョンベと話し合うた
め、エリザベートヴィルに赴く途中、カタンガに隣接しているザンビア領内のウンドラ飛行場近く
で、その搭乗機が墜落し、殉職するという運命を辿りました。
現実は、ハマーショルド事務総長の構想とは、全く別の展開を見せていきました。先ず、ベル
ギーは、国連決議を無視して、軍隊のカタンガ進駐を継続し、引き揚げの条件として、白人の人
命の安全とコンゴ全域における経済活動の正常なる再開を可能にする治安の確保を主張しま
した。
到着した国連軍も、一般的な治安の維持には当たるものの、積極的にカタンガに進攻し、そ
の分離独立を解消すために武力行使を行うことは、現実には無理でした。そうする間に国連の
舞台裏では、次第にカタンガの分離独立は単なるコンゴの国内問題であるという認識が広まり
ました。それは、欧米諸国にとって分離独立問題よりも、コンゴが共産圏陣営の支配下に入る
ことを恐れたからです。ルムンバ首相は、国連軍がカタンガに対し、消極的な態度をとり続けて
いることに、怒りを感じていました。首相はダグ・ハマーショルド事務総長にまで噛み付き、彼こ
そカタンガ分離独立の責任者であるとの声明まで出しました。
一方で、カタンガ州としては、国連軍のカタンガ進駐は何としても阻止したかったのです。8月
6日に予定されていた国連軍のカタンガ到着を前に、チョンベの参謀役のムノンゴ大酋長は、
国連軍が進駐してくれば、カタンガはその総力を挙げてこれを阻止すること、ルムンバは共産
主義者の手先であり、その独裁を許すぐらいなら、死を選ぶという決意を明らかにしました。ベ
ルギーの方は、国際世論の非難に対する言い逃れのため、カタンガの進駐ベルギー軍を、カタ
ンガ政府の要請に基づいてやって来た軍事援助要員と呼ぶようにしました。これでカタンガ分
離がコンゴの国内問題であるという議論を通り易くする姑息な手段でした。
それと共に、ハマーショルド事務総長もついにルムンバに見切りをつけ、カタンガ問題をコン
ゴの国内問題とする議論に同調しました。その裏には、国連本部において東西両陣営間の激
しい攻防があったからです。そして、それは、ルムンバが欧米諸国から親共産主義者としての
レッテルを貼られたこととも関係します。
8月8日、国連安保理はコンゴ問題について第三の決議を採択し、新たな解決を求めることに
なりました。すなわち、ベルギー軍のカタンガからの撤退を引き続き要請しながらも、国連軍は
コンゴ国内の如何なる紛争の解決にも介入してはならないという項目を追加しました。これは、
国家的統一を確保するために、国連軍を派遣するという先の2つの決議とは矛盾するものであ
り、大きな方向転換であり、カサヴブ大統領とルムンバ首相が最初に国連に提訴した趣旨を全
く無視するものでした。
国連のこのような、決議に勇気づけられて、カサイ州のアルベール・カロンジも、ダイヤモンド
鉱山会社のフォルミニエールとの合意に基づき、南カサイ州の分離独立を宣言することになり
ます。この鉱山会社は、カタンガのユニオン・ミニエールと同じく、ソシエテ・ジェネラル・ド・ベル
ジックの子会社であり、その事業継続のために南カサイ州においてその勢力を維持し、鉱業コ
ンセッションを確保する必要があったのです。
これでルムンバ政府は、カタンガの銅を初めとする鉱物資源からの国家財源を失った上に、
今度はダイヤモンドの売上からくる財源も失うことになりました。
8月8日の国連決議の結果、ルムンバ政府としては国家統一について最早、国連を頼りにで
きなくなり、自力でこれを解決するしか方法がなくなりました。
ルムンバは、国連総会に出席した際に、ワシントンで米国政府に経済援助の要請を行いまし
た。ワシントン政府は、すでにこの時点でルムンバ首相を抹殺すべき危険人物と判断していま
した。当時の国務次官であったダグラス・ディロンは次のように証言しています。
「ルムンバは国務省で私一人と、あるいは私も同席して、国務長官と会談したとき、決して私
たちの目を見ようとしなかった。天上を向いたり、とうとうとまくしたてていた。フランス語を話した
が、実に流暢だった。おまけに、あれだけの饒舌を弄しながら、話は、私たちが議論したいと考
える特定の問題とはまったく関係がなかった。何か絶対的な信仰としか言いようがない情熱に
とらわれているような人物という気がした」。(*4)
さらに、その帰国の途上でギニアを訪問しました。ギニアは他の仏領アフリカ諸国と違って、フ
ランスとの友好関係を無視して、フラン圏から脱退する覚悟で独立の道を歩みだした国です。そ
れだけに、ルムンバはどうしてもその大統領であるセクトゥーレに一度会いたかったのです。実
は、独立式典でのルムンバの激しい演説は、ドゴール将軍に盾を突いたセクトゥーレ大統領の
演説を参考にして用意されたものでした。
ルムンバ首相は、このコナクリ滞在中に国連の第三の決議について、その内容を聞かされま
した。ルムンバにしてみれば、国連事務総長は、国連決議を執行するために、どうして国連軍
をカタンガに派遣しないのか? どうしてチョンベと妥協するために話し合いに応じたのか? 理
解に苦しむところでした。
ハマーショルド事務総長がカタンガの分離独立をコンゴの内政問題であると決めつけた以
上、ルムンバ首相としては、コンゴの主権の範囲内で自己の責任を全うし、カタンガ問題を解決
するしかありません。ルムンバは吼えました。「アメリカ人やソ連人、そして世界の人々に告げ
る。アフリカはアフリカ人自身のため存続して行くのであり、その繁栄のためには一つの道しか
ない。それは、アフリカの統一を力強いものにすることである」。
この時点では、ソ連人をも非難の的としていることは、ルムンバに親共産主義者というレッテ
ルを貼ることが如何に形式的なものであったかを示すものです。
ルムンバ政府は、直ちにキヴ州とカサイ州に駐屯していた中央政府に忠実なコンゴ国軍を集
合させ、南カサイとカタンガの分離独立を制圧するための作戦を準備しました。そして、ルムン
バは先ず、ルンドゥラ最高司令官に南カサイのカロンジ政府制圧の命令を下しました。2日もせ
ずに、カロンジは戦意を喪失して、この分離独立を放棄しました。国軍は、この作戦に成功した
ので、さらにカタンガの北部に進攻し、カタンガ州内部で、チョンベ派と対立し、カタンガ北部にそ
の勢力を張っていたBALUBAKAT党の民兵と合流しました。チョンベの動揺は隠すべくもあり
ませんでした。
国軍は、鉱山地帯でありユニオン・ミニエールの天下であるカタンガ南部に侵攻するはずでし
た。そして、コンゴ国軍の手によって、カタンガの分離独立に終止符を打てれば、それはルムン
バ首相の思惑通りでした。
しかし、ここで奇妙なことが起きました。それは、参謀本部長のモブツ大佐が国連と協議して、
カタンガに攻め込んだ国軍に対して武器を置いて、それぞれ元の駐屯地に帰るようにという命
令を出したことです。しかも、その数千人の兵士の引き揚げに、国連軍の輸送機が提供されま
した。
国連は、カタンガの分離独立が国内問題であるとして、その部隊のカタンガ進駐を拒否してき
ていたのに、その問題の解決が見えてきたとたんに、その問題の処理に介入してきたのです。
米国を初めとする自由主義陣営は、親共産主義者と目されるルムンバが国家統一に成功し、
首相としての地位を固めることを恐れたのです。国連代表のバンチは、国防大臣を兼務するル
ムンバ首相や最高司令官のルンドゥラ将軍を差し置いて、直接モブツ大佐と話し合いをつけま
した。それは、直ちに中央政府軍とカタンガの間で休戦協定を結ぶことであり、国軍の統一作
戦を停止させることでした。モブツは、自分自身が作り上げた国軍のカタンガ制圧作戦プランを
放棄し、国連の意向に沿って国軍に対して停戦を命じたのです。それは明らかに、ルムンバ首
相とルンドゥラ将軍に対する裏切り行為であります。
ルンドゥラ最高司令官は、南カサイ州の問題解決のためルルアブールで国軍の指揮をとって
いましたが、自分の兵士たちが戻ってくることを知り、怒りました。将軍はレオポルドヴィルに赴
き、ルムンバ首相に会いまた。ルムンバは、その時アフリカ首脳会議に忙殺されており、モブツ
の決定について何も知らされていませんでした。首相は直ぐモブツを呼びつけ、質しました。
「自分は国防大臣であるが、何も承知していない。君は単なる大佐ではないか。それなのに、
君の上司であるルンドゥラ将軍にも相談しないで、停戦を命じるとは何ということだ」。 モブツの
答えは、「ルンドゥラ将軍はレオポルドヴィルにいなかった。それが故に相談することもできなか
った。私としては、自分の責任を果たしただけである」ということでした。
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