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◆ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり 以下、全文引用です。
北米大陸には北米インディアンと総称されることになる先住民が大昔から生活していたが、一五〇〇年代中頃から、スペイン、フランス、イギリスなどが植民地の建設を試み始めた。はじめの数十年間、その試みがしばしば挫折失敗した主な理由は、植民事業が本国の富裕な貴族や大商業資本家の投資(投機)の対象として行われたため、期待された利潤が上がらない場合には、現地の人々の苦難など気にせずに放棄したことと、それに、先住民の抵抗が結構強かったことであった。
一六〇七年、会社組織で着手されたイギリスのヴァージニア植民地も最初の一〇年は絶滅の危機に瀕したが、ヴァージニア会社の大口出資者に対して、一六一八年、多数の小口出資者が始めた経営改革運動(サンズの改革)が功を奏して立ち直っ� ��。この頃から北米大陸東岸地帯(ニューイングランド)へのイギリスの非国教徒の集団移住が始まる。本国て宗教的弾圧を受けた人々が新大地で新しい集団生活を始めることを主要な夢とした点に彼らの特徴があったが、生活空間を確保するには先住民を排除撲滅する必要があったことに変わりはない。
なぜ、そして、どのようにして、北米に黒人奴隷制が持ち込まれたか? これは重要な問題だ。私が今から記述することは、反米感情を下敷きにした歴史の書き直しではないシュブァイカート・アレンの『愛国者のアメリカ史』にもジンの『民衆のアメリカ史』にも、また、あれこれの学問的アメリカ合州国史に目を通しても、つまり、右からでも左からでも、おおよそ同じような答えが与えられている。
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英国の北年大陸最初の恒久的植民地は、一六〇七年の春、英国王ジェームズの名をとったヴァージニアのジェームズタウンに開設された。いや、正確には、開設が試みられたと言うべきである。クリストファー・ニューポートの指揮の下、入植者一〇五人が三隻の小型船に乗って到着したが、その半数は身についた技能もなく、ただ新大地での資金的成功を夢見るだけの、紳士たちで、一二人の人足、数人の大工、鍛冶屋、石工、床屋、洋服屋がそれぞれ一人といった構成は、未知の土地での植民地開拓にふさわしいものとは到底言えなかった。ニューボート船長は追加の開拓民と物資食糧を運んで来る約束をして英国に帰ったが、その後の建設や農地の開墾が思わし� �進まないまま、最初の冬とともに、食糧不足と疾病の危機が到来した。翌一六〇八年一月にニューポートが一二〇人の開拓民を連れて戻って来た時には、はじめの一〇五人のうち僅か三九人しか生き残っていなかった。
ジェームズタウン植民地を全滅から救ったのは、冒険心にあふれた快男児ジョン・スミスだった。ジェームズタウンから少し奥地に踏み込んだ所で、インディアンに囚われ、あわや斬首の刑に処せられるところを、酋長ポワタンの娘ポカホンタスが救命を嘆願して九死に一生を得た。この縁でスミスはボワタンからコーンなどの食糧の供給を受けることに成功し、三九名がニューポートの到着まで生き延びることができたのである、スミスは一六〇九年に英国に帰ったが、同年、英国からジェームズタウンに向か� �た輸送船団が途中バーミューダ諸島の海で嵐に遭い、食糧の補給が絶え、その上、その冬はボワタンの率いるインディアンは友好的な姿勢を変えて、ジェームズタウンを飢餓状態に追い込むことによって、英国植民地の海への追い落としを図ってきた。いわゆる、飢餓の時(Starving Time)が襲ってきたのだ。開拓民たちは次々に倒れ、一六一〇年の春には六〇人だけが辛うじて生き残った。六月はじめ、彼らは遂に植民地を放棄して英国に帰ることを決意し、四隻の小型帆船でジェームズ川を下って海に向かった。まさにその時、遥か沖合に九隻の船影が認められた。新しくジェームズタウン植民地の総督に任命されたデラウェア卿の率いる五〇〇人と物資と食糧を積んだ船団であった。
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ヴァージニアのジェームズタウン植民地の最初の一二年間の惨状を記録した文書が残っている。それに基づいたシュブァイカートノアレンの『愛国者のアメリカ史』とジンの『民衆のアメリカ史』の記述(の一部)を、以下に訳出してみよう。綺麗事ばかり語っていては、北米大陸に乗り込んで来た ジェームズタウンに着いた他の船も一六〇九〜一〇年の冬の、【飢餓の時】を経験するためにやって来たようなものだった。ジェームズ砦に立てこもった英国人入植者は、犬、猫、鼠、毒茸、馬の皮を食べ、遂には死人の屍も食べた。バーミューダで動きの取れぬようになった輸送船団の残りの船がヴァージニアに到着した時には、すべての入植者たちは英国に� ��るべく、船ですでに海に出ていたのだ。
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この凄まじい飢餓の極限状態は言い伝えではなく、記録した公式文書が残っている。先述したヴァージニア植民地議会の議事録に、ジェームズタウン植民地の創設から十二年間の状態の記述が含まれているのである。ジンの『民衆のアメリカ史』の方(24p)には、一六〇九〜一〇年の冬の、【飢餓の時】について、その文書からの引用がある。以下の翻訳は山本幹雄著『異端の説教師ギャリソンーひとつのアメリカ史診断』(法律文化社、一九九九年、6-7p)に基づいている。
人々の多くは地面に掘った洞窟のような穴の中に住んでいた。そして、一六〇九〜一〇年の冬には、彼らは・・・耐えがたい飢え にかられて、本来最も忌むべきものである人肉や人糞を食べた。それも、インディアンのだけではなく、自国人のそれも食べた。埋葬された死体を二日後に墓から掘り出して、すっかりむさぼり喰らう者たちもいたし、他の連中は、自分たちほど飢えで消耗せず、より良い状態の他人の体をうらやんで、待ち伏せし、殺して食べるぞと脅した。そのうちの一人の男は、彼の胸に抱かれて眠っていた妻を殺して、バラバラに切り刻んで塩漬けにし、それで食いつないでとうとう頭を除いて全部きれいに平らげてしまった。・・・
ところで彼らが住んでいた洞窟のような穴とは何だったのか? 別の史書で、一儲けを当て込んでヴァージニアに渡って来た英国人入植者たちは、地道に農地を開墾する労を嫌がり、「新大陸」で金を掘り当てようと当てずっぽうに大地を掘ってみたがヴァージニアには金が見付からなかった、と書かれてあるのを読んだ記憶がある。彼らが住んでいた穴とは、金を求めて、行き当たりばったり、大地を堀り返してできた洞穴だったのではないかと思われる。アメリカン・ドリームの最初の追求とその挫折と言うべきか。
ジンの『民衆のアメリカ史』をもう少し読み進めてみよう。
トマス・スミス卿の十二年にわたる統治に対する苦情を申し立てた三〇人殖民者による嘆願書には、次のようにある。
トマス・スミス卿の統治下のこの十二年間、非常にきびしく残酷な法のもとで、植民地は、ほぼ全域にわたって欠乏と悲惨の極みにあったと我々は断言してはばかりません。この時期の一人あたりの配給量は、一日たった八オンスの挽き割りコーンと半パイントの豆だけで・・・かびが生え、腐り、クモの巣とウジがいっぱいで、とても人間が食べられるしろものではなく、けだものにも不適でした、この状況のため、多くの人々が、救いを求めて野蛮な敵(インディアン)のところへ逃げ出しましたが、彼らは再び連れ戻されると、絞首刑とか銃殺とか列車で引き� �かれるとか、いろいろなやり方で死刑に処せられました。・・・そのうちの一人は二、三パイントのオートミールを盗んだかどで、舌を千枚通して刺され、鎖で木にしばられて、とうとう餓死してしまいました。
ここで、多くの白人が救いを求めてインディアンの部落に逃げ込んだという事実に注目しよう。インディアンの側には食糧があり、彼らの中に入れば餓死せずにすんだことが、この場合の、白人の逃亡の理由だが、これは、ジエームズタウンの一六〇九〜一O年の冬の【飢餓の時】にたまたま生じた珍奇な現象ではなかったのである。北米インディアンの社会に足を踏み入れた白人が、そのまま留まって白人社会に戻らなくなってしまう現象は一六〇〇年代のみならず、一七〇〇年代にも続いた。「白いインディアン」� �発生である。アメリカ合衆国の「父祖」の一人とも言えるベンジャミン・フランクリンも次のような観察を残している。
インディアンの少年が我々の問で育てられ、我々の言葉を学び、慣習に慣らされても、もし、彼がその親族のところに会いに行って、彼らとしばらくインディアン風にとりとめない時を過ごすと、帰って来るように説得することはとても無理だ。しかし、白人が、男であれ女であれ、若い時分にインディアンに捕虜として連れ去られ、しばらく彼らの中で暮らすと、白人の友人たちが身代金を払って受け戻し、おりとあらゆる優しさで、英国人の間に留まるように説得してみても、短い時間のうちに、我々の生活様式とそれを支えるために必要な気苦労や苦痛に嫌気がさして、森の中に逃げ帰るいいチャンスを掴むやいなや、森に帰ってしまって、もう二度と連れ戻すことは無理である。
この白人の原住民化の現象は青少年に限られず、成人にも多く見られた。この歴史的事実を研究したジェームズ・アクステルは、その理由を、当時のインディアン社会での人間関係が相互信頼の上に築かれ、お互い平等寛容で、争い事が少なく、北米のアングロサクソン植民地の白人社会よりも際立って生きやすい社会であったことに求めている(本書105p。上に引用した嘆願書が描く白人社会の苛酷さと対照的であったのだ。白人の原住民化の現象(白いインディアン)は、オバマ大統領とそのスピーチ・ライターのチームを含めて、多くのアメリカ人の表面的記憶から消されている。しかし、アメリカ人の集団深層心理となれば、話は別である。「白いインディアン」の問題はあとで再び取り上げる。
◆ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり <了>。
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