第2次世界大戦後における欧州統合の発展 |
欧州統合の発展過程は、以下で説明するように、一つの段階が終了すると次の段階へ、また一つの政策が成功を収めると次の政策へと、段階的に発展してきた(いわゆる Spill-over-effect)。EUの発展過程は、まさにpoint of no return であったといえる。EUからの脱退、特に、1990年代は、経済・通貨同盟からの脱退について論じられたが、現実的にはそれは不可能であると考えられる。
1. 第2次世界大戦直後の動き − 緩やかな欧州統合 |
第2次世界大戦後、旧ソ連を除くヨーロッパ各国の衰退は露になった。大戦の実質的勝者は、アメリカと旧ソ連であり、両大国の力関係の都合で、ドイツは東西に二分された。両大国の狭間にあって、西欧諸国は、相互の軍事対立を回避すること、また、国際舞台における政治的発言力を強化することを政策目標に掲げたが、これが欧州統合の原動力となっていることは、今日においても変わりがない。
欧州統合は、特に第2時世界大戦後に著しい発展を見せたが、その過程において重要な点は、@戦禍によってヨーロッパは荒廃したことと、A東西対立の激化に伴い、西欧諸国は、アメリカの軍事ないし経済支援を受けたこと(そういう意味で、西欧諸国統合の基盤は整っていたといえる)である。また、B敗戦国ドイツは二分されたが、どのようにすれば西ドイツを西側陣営に適化させ、また国際舞台に復帰させることができるかどうかということも、欧州統合の論点の一つであった。
第2次世界大戦が終了した翌年(1946年)の9月19日、元イギリス首相のウィンストン・チャーチル (Winston Churchill) は、ヨーロッパ各国は協調すべきであることを力説し、アメリカ合衆国に類似する「ヨーロッパ合衆国」の設立を提唱した。また、ドイツとフランスの和解が何よりも大切であることを指摘した。もっとも、チャーチルの祖国イギリスは、彼が説く欧州統合に消極的であった。 | Winston Churchill (1874〜1965) |
それは、当時、イギリスは、主権の譲渡に反対していたこと、大陸諸国よりも英連邦(Commonwealth)との関係を重視していたこと、また、自国は米ソに並ぶ超大国であると考えていたことなどに基づいていた。 |
チャーチルの見解に共鳴し、西欧諸国間には幾つかの国際組織が編成された。例えば、経済面では、1948年より実施されたアメリカの欧州経済復興援助計画(マーシャルプラン)の受け皿として、西欧17カ国でOEEC(欧州経済協力機構)が結成された。その後、OEECはOECD (経済協力開発機構) に改組された。
より一般的な目的で設立された国際機構としては、欧州評議会(Council of Europe)が挙げられる(1949年設立)。同評議会は、諸国の統合体というよりは、統合のあり方について討論するためのフォーラムといった役割を有するに過ぎないが、1950年には人権保護を目的とした条約(欧州人権条約)を採択するなどの成果も挙げた。欧州人権条約は、ヨーロッパの公序として、また、広い意味でのEU法として重要である(参照)。欧州評議会の場では、この人権尊重の精神の他に、民主主義の重要性も強く認識されることになった(EUによる欧州人権条約の締結については こちら)。
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その他にも、軍事面では、西欧同盟(WEU)や北大西洋条約機構(NATO)が組織された。なお、1954年には、旧ソ連に対抗するために、西ドイツの再軍備に道を開く欧州軍事共同体の設立も検討されたが、フランスの反対にあい実現しなかった。詳しくは後述すように、(緊密な)欧州統合は経済分野で進展する。
上述した欧州統合の特徴は、国家が緩やかな形で結束した点にある。すなわち、設立された国際組織に加盟国が主権を委譲することはなかった。これに満足しなかった国々は、1950年代以降に、強力な欧州統合を実現させることになった。
2. 三つの欧州共同体の設立 |
前述したチャーチルの要請に応える形で、1950年5月9日(「ヨーロッパの日」ないし「EUの日」)、当時のフランスの外相ロベルト・シューマン (Robert Schuman) は、欧州石炭・鉄鉱共同体を設立し、フランス、ドイツおよびその他のヨーロッパ諸国の石炭および鉄鋼の生産を共同で管理することを提案した。石炭・鉄鋼産業は、当時の基幹産業であり、これを共同で開発・運営することは経済復興に資すると考えられた。また、これらの資源が採掘される領土の獲得をめぐり、ドイツとフランスは、紛争を繰り返してきただけに、これらを共同で管理するための国際機関の創設は、紛争の回避に役立つと考えられた。さらに、共同体の設立は、欧州連邦への第一歩ともみなされた。 |
このような基本コンセプトの下、ドイツ、フランス、イタリアおよびベネルクス3国は、1951年4月18日、パリにおいて、欧州石炭・鉄鋼共同体を設立するための条約に調印し、同条約が発効した翌年 の7月23日、最初の欧州共同体は発足した(設置場所はルクセンブルク)。なお、1950年、イギリスはフランスの誘いを断り、原加盟国にな ることを拒んだ。
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(2) 欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(Euratom)の設立 |
欧州石炭・鉄鋼共同体設立の成功を受け、管轄分野を石炭・鉄鋼の生産管理に限定せず、経済一般を扱う共同体、すなわち、欧州経済共同体 (European Economic Community (EEC)) の設立が提案された。EECの設立は、加盟国間の貿易を自由化し、国際競争力を高めることによって、アメリカに対抗しうる経済力を回復すること、また、域内の経済活動を活性化し、市民の生活の質を向上させることなどを目的としていた。
その他、1950年代半ばには、新しいエネルギー源として、原子力エネルギーの開発が注目されるようになった。効率的なエネルギー調達という経済的観点から、また、原子力の平和利用や原子力発電の安全確保という観点から、新たに欧州原子力共同体 (European Atomic Community (Euratom)) を設立することが検討された。
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前掲の2つの共同体の設立を目的とした会議 は、1955年、イタリアのメッシアで開催され、欧州石炭・鉄鋼共同体の(原)加盟6カ国は、1957年3月、EECを設立するための条約と、欧州原子力共同体を設立するための条約に調印した。これらの条約は、翌年の元旦に発効した。なお、同条約の制定作業は、ベルギーのポール=ヘンリ・スパーク(Paul-Henri Spaak)が中心となり進められたため、諸共同体の会議や事務作業はベルギーで行われるようになった。 |
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さらに、欧州防衛共同体や欧州政治共同体の設立も提案されたが、各国の見解がまとまらず、実現するに至らなかった。このことは、経済的な統合はさておき、政治的な統合は困難であることを浮き彫りにした。
3. ECの発展と初の拡大 |
欧州経済共同体条約は、12年間の過渡期間を設け、段階的に、共同市場(Common Market) を設立すること(旧第7条)、また、1966年より、農業 や 通商 といった重要な政策分野における決議を加盟国(EU理事会)の全会一致制から多数決制に移行させることについて定めていた。もっとも、これらの点について、各国は完全に合意していたわけではない。特に、フランスは、多数決制度が採用されれば、自国の意に反した政策決定が行われる危険性があるとして、多数決制度への移行に異議を唱え、1965年半ばより約半年間にわたり、EU理事会への出席を拒むようになった(politique de la chaise vide)。そのため、ECの機能は一時、停止することになった。しかし、1966年1月29日、いわゆる「ルクセンブルクの妥協」が成立し、非常に重要な国益に関する案件は、全加盟国の賛成を必要とするという形で事態が収拾した。
ルクセンブルクの妥協
このような手段により、当時のフランス大統領シャルル・ドゴール(Charles de Gaulle)は、ECの政策発展を滞らせたが、その他にも、1958年、1963年と1967年の3度にわたり、イギリスのEC加盟を阻止した経緯がある。つまり、ドゴールは、 英国はヨーロッパ諸国よりも、海外とのつながりを重視しているとし、そのEC加盟申請を却下した。なお、イギリスの加盟は、ドゴール退陣後のハーグ加盟国首脳会議(1969年12月)でようやく承認された。また、同時に、過渡期間の終了が宣言されるだけではなく、欧州統合を超国家主義路線に戻すことで合意された。さらに、翌年の10月には、EC枠外の政府間制度として、欧州政治協力(EPC)が正式に発足した(参照)。
1968年7月1日、EECの基礎である関税同盟(詳しくは こちら)が発足した。
1970年代に入ると、ECは外に向かって拡大し、イギリス、アイルランド、デンマークの加盟が実現した(1973年)。これによって、加盟国数は当初の6より9に増加した。
また、1976年7月12・13日、欧州理事会が欧州議会の加盟国別議席数を決定し、直接選挙に関する議定書を採択したのに伴い、1979年6月7〜10日には、初めての直接選挙が全加盟国で実施されている(参照)。
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4. 欧州統合の停滞期と単一欧州議定書の制定 |
蔓延するユーロペシズムの中、新たな動きも見られた。例えば、1984年2月、欧州議会は、欧州連合設立条約草案を起草した。また、日米の国際競争力の向上は、加盟国に危機感だけではなく、欧州統合発展(深化)の必要性を強く認識させた。このような状況下、欧州委員会は「域内市場白書」を発表し(1985年6月)、諸制度の改革と1992年末までに域内市場を完成させることを提案した(この期限の法的効力については こちら)。この提案を受け、加盟国は、1986年2月、「単一欧州議定書」を採択し、@EECの憲法ともいえるEEC条約の改正、A1992年末までの域内市場の完成、B欧州議会の権限の強化や、C理事会における議決制度の柔軟化などの点で合意した。同議定書は、翌年7月に発効し、EC条約は改正された。また、同議定書は、DECの枠外で発展してきた欧州政治協力(EPC) や 欧州理事会[17] について、第1次法としては初めて規定している。さらに、1978年12月に発足した欧州通貨制度(European Monetary System(EMS))に関する規定も盛り込むとともに、E EECの管轄分野に社会政策を追加している。
5. マーストリヒト条約とEU(欧州連合European Union) 体制の発足 |
マーストリヒト条約(正式名称は「欧州連合に関する条約」という)は、1992年2月7日、オランダのマーストリヒト(Maastricht)において、当時のEC加盟12カ国によって署名された。同条約は、@従来のEECをECに改称し、また 経済・通貨同盟の設立や欧州単一通貨ユーロ(Euro)の導入 について具体的に定めている。その他、A従来の欧州政治協力(EPC)を共通外交・安全保障政策に改組し(いわゆるEUの第2の柱)、また、B司法・内政分野での協力制度を新たに設けている(第3の柱)。さらに、「EU市民」 という概念も導入された。
マーストリヒト条約は、全加盟国によって批准された後、1993年11月1日に発効した(マーストリヒト条約(EU条約)第52条(旧第R条)参照)。批准に際しては、特に、デンマーク とドイツにおいて、欧州統合懐疑論が強く主張されたが、これは、政治・経済統合を強力に推し進め、「欧州連合国」を樹立することは依然として困難であることを明確にし、欧州統合にもブレーキをかけた(参照)。
東西冷戦結後の1995年には、中立政策をとってきたオーストリア、フィンランドとスウェーデンがEUに加盟した。なお、ノルウェーとも加盟交渉が行われ、加盟が了承される段階にまで至ったが、最終的に同国は加盟を見送った。
◎ EU加盟から10年が経過したオーストリア
6. アムステルダム条約の制定とEuroの誕生 |
マーストリヒト条約は制定当初から見直しの必要性が指摘されていた。そのため、1996年3月、いわゆる Maastricht II の起草を目的とした政府間会議が開始された。そこでの焦点は、@将来の EU東方拡大 (10カ国以上の新規加盟が予想され ていた)に備えた機構改革や、Aマーストリヒト条約に基づき導入された制度(共通外交・安全保障政策 および 司法・内政分野の協力)の改善であったが、前者に関しては特に大きな進展が見られないまま政府間会議は終了したが、いくつかの点で、欧州議会の権限は強化されている(参照)。
会議の成果は条約という形にまとめられ、同条約は、1997年10月、アムステルダムにおいて、加盟国外相によって署名された。締結地の名をとって、アムステルダム条約と呼ばれるこのEU第1次法は、域内における人の移動の自由や移民政策をECの管轄領域に取り込み、また、国境規制撤廃に関するシェンゲン協定とその制度をEUの枠組の中に取り入れる旨を定めている。要するに、加盟国は司法・内政分野における管轄権をEU(厳密にはEC)に委譲することにな った。それゆえ、フランスは憲法改正を余儀なくされた。この作業のため、同国は、EU加盟15カ国の内、最後にアムステルダム条約を批准することになったが、全加盟国の批准を受け、同条約は1999年5月1日発効した。
マーストリヒト条約によれば、単一通貨ユーロ は、3つの段階を経て導入されることになっていた。この計画通り、最終段階の開始時である1999年1月1日に経済通貨連合 (Economic and Monetary Union (EMU)) が発足し、単一通貨ユーロ(Euro)が誕生した。なお、この時点において、ユーロはまだ為替上の単位に過ぎず、実際に紙幣や硬貨は発行されていなかった 。実際にユーロ通貨が市中で使用されるようになったのは、3年の移行期間を経た2002年元旦のことであった。
1999年元旦の時点で、ユーロが導入されたのは、ドイツ、フランス、イタリア、ベネルクス3国、アイルランド、スペイン、ポルトガル、オーストリア、フィンランドの11カ国であった。また、後に、ギリシャは、ユーロ導入基準を満たし、2000年1月、新たにユーロ圏に加わっている。他方、イギリス、デンマーク、スウェーデンの3カ国は現在(2005年3月)まで導入を見送っている。
7. アジェンダ2000の採択 |
8. ニース条約の制定とEU基本権憲章の採択 |
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欧州石炭・鉄鋼共同体の消滅
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10. リスボン戦略の採択 |
IT技術の発展に支えられ、米国経済が大きく発展し、EU経済を凌駕しようとする背景下、欧州理事会 は、2000年3月、この10年間の内に、EUを世界中で最も競争力のある経済地域に発展させることを目標とした戦略を決定した。これは、採択地にちなんでリスボン戦略 と呼ばれるが(詳しくは こちら)、その後のIT産業発展の失速や世界的な経済不況、また、加盟国の取り組みの弱さを理由に、目標の達成は芳しくない(参照)。経済発展やより質の高い雇用の創出は、従来どおり、EUの最優先課題にあたる。
11. 欧州憲法条約の制定 |
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