マティアス↓が案内してくれましたー。
おすすめの滝を見るため、schaffhausenへ。
雨上がりで水量が増して、迫力満点の滝。
行って良かった。
昭和8年に出来上がった公会堂は、まさに昭和のロマンを再現してくれます。建物は清水某という建築家ですが、そのモダンなデザインは、時代の先端を行っていました。
それが、当時では最高のモダンなデザインでした。重厚な内部構造は未だ健在で、訪ねる人に落ち着きを与えてくれます。YouTubeの動画でも、アップされています。
第二次大戦中のB29の爆撃にも奇跡的に難を免れ、戦後暫くの間は、ここの講堂を使って、クラブ紹介やガイダンスなどで、出向いたものでした。
そして、今回の阪神大震災にも、びくともしなかった建物です。
!doctype>質問101. プントの女王はDercum's diseaseだったそうですが、どんな病気ですか? (鈴木)
Dercum's diseaseはAdiposis Dolorasa(疼痛性脂肪過多症)のことで、贅沢な生活をしているうちに、身体に脂肪がつきすぎて、身体を動かすと痛みを伴う病気のようです。普通の肥満どころではないようです。きっと元大関の小錦さんのような女王がエジプトの遠征隊を出迎えてくれたのでしょうね。(西村)
質問102. クロールのような泳ぎをするヒエログリフがあるそうですが、どんなところに記されていますか? (伊藤)
クロールをしている人に見えるヒエログリフサインは第0王朝〜第2王朝に、特に第1王朝のデン王の時代の円筒印章や容器に見られます。年代は紀元前3,100年頃〜2,600年頃です。スケッチ程度ですが、Jochem Kahl, Frühägyptisches Wörterbuch, 2.Lieferung m-h, Wiesbaden, Otto Harrassowitz, 2003, pp.224-228に証拠が挙げられています。この辞書によれば、発音はnb(ネブ)、意味は「経済施設の一部門あるいは経済施設で働く人」です。この時代に円筒印章や容器に記されたヒエログリフサインは所有者や生産地、食料の管理施設などを表すために使われるので、クロールをしている人に見えるヒエログリフサインは実際には水泳とは何の関係もないと思われます。
ちなみに「泳ぐ」という意味の古代エジプト語はnbi(ネビー)で、こちらはAdolf Erman und Hermann Grapow ed., Wörterbuch der Ägyptischen Sprache, 2. Bde., Berlin, Akademie Verlag, 1982, S.236によれば、ピラミッド・テクスト以来使用例が見られるそうです。水を表す限定詞の前に横に倒れた人のサイン(A15)が使われています。残念ながら泳いでいる人のサインではありません。(西村)
質問103. 古代エジプトには映画「ハムナプトラ」に出てくるような鍵で開ける本があったのですか? (鈴木)
古代エジプトの書物はパピルスの巻物で、現在の本のように綴じられていませんでした。くるくるとパピルス紙を巻いて、紐で縛って、紐の結び目に粘土の塊を置き、印章で封印されていました。書物を読むときはその粘土の封印を取り除きます。だから本を開けるための鍵もありませんでした。(西村)
質問104. 古代エジプトには映画「ハムナプトラ」に出てくるようなスカラベに肉体を食べさせる処刑方法があったのですか? (鈴木)
ありません。古代エジプトの死刑については、質問46の回答をご覧下さい。しかし、『大英博物館双書1 古代エジプトを知る ミイラ解体』(学芸書林、1999年)、126-8頁によれば、古代エジプトのミイラはデルメステスという肉食性の甲虫によって荒らされていることが多いようです。デルメステスはスカラベ(聖甲虫)とは異なる種類の昆虫で、防腐処理をする前あるいはその最中に死肉に卵を産みつけ、包帯の下で孵化し、死肉を食べて、成虫となり、包帯の外に出ることなく、死んでいきます。ミイラを解剖すると、数十〜数百のデルメステスの死骸が発見されるそうです。映画「ハムナプトラ」ではこのような事実に基づいてストーリーが作られたのだと思います。(西村)
質問105. スコーピオン・キングは実在した人物ですか? それとも架空の人物ですか? (鈴木)
スコーピオン・キングと呼ばれる王は確かに実在しましたが、どのような業績のある王なのかはよくわかっていません。ヒエラコンポリスの神殿跡から出土した大型のメイスヘッド(棍棒頭)に白冠をかぶり、鋤を持って地面を掘ろうとしている王のレリーフがあり、その王のそばにサソリのヒエログリフがあることから、その王は便宜上スコーピオン・キング(2世)と呼ばれていますが、本当の名前は知られていません。年代的にはナルメル王の直前に位置づけられています。また、ナルメル王より100年ぐらい前にもスコーピオン・キングがいました。彼のアビュドスの墓(U-j墓)からは最古のヒエログリフが記されたラベルが多数発見されています。そして複数の土器に大きなサソリの描写があることから、彼も便宜上スコーピオン� �キング(1世)と呼ばれています。だから、映画「スコーピオン・キング」は実際にはこれらの二人の王たちとは何の関係もなく作られたストーリーと言えますね。スコーピオン・キングについては、「古代エジプトの歴史 2. ナカダ3期・第1王朝」のサソリ王の記述もご覧下さい。(西村)
質問106. ロゼッタ・ストーンに記されているヒエログリフは古代エジプト語のどの段階にあたるのですか? (嵐)
新・中期エジプト語です。新・中期エジプト語は新エジプト語がアマルナ時代に書き言葉に採用されてから、もっぱら公式記念碑文と宗教テクストに使用されるようになった古代エジプト語で、中期エジプト語の文法的要素を維持しながら、単語の綴りは時代とともに変化します。ロゼッタ・ストーンはプトレマイオス5世の治世9年に発布されたメンフィス勅令を記したものですが、ギリシア・ローマ時代にはヒエログリフ・サインの爆発的な増加が見られ、その数は750→5,000になりました。さらに当時のヒエログリフは神官たちの遊びと連想から生じた特殊な綴りで記されています。(西村)
質問107. 逆行書法はすべての宗教テクストで使われるのですか? なぜ宗教テクストでは逆行書法が使われているのですか? (速水)
『死者の書』『イミドゥアト』『門の書』はもちろん古王国のピラミッド・テクストやメンフィス神学を記したシャバカ・ストーン(第25王朝)も逆行書法で書かれます。おそらく世俗のテクストと容易に識別できるように逆行書法が使われたのだと思います。(西村)
質問108. Aa1のサインは何を象っているのですか? コインですか? (速水)
いえ、それはありえません。古代エジプト人はコインを知らなかったからです。古代エジプトが貨幣経済に移行するのはプトレマイオス王朝になってからです。末期王朝に外国人傭兵たちの間で、またナウクラティスで商業活動をすることを許されていたギリシア人たちの間で、フェニキアのシェケル、アケメネス朝ペルシアのダリク、ギリシアのドラクマなどのコインが流通しますが、それらは古代エジプト人には何の価値もありませんでした。Aa1のサインについては、何を象っているのか不明です。(西村)
質問109. ヒエログリフの縦書き・横書き、右向き・左向きには何か意味があるですか? (高橋)
古代エジプト人は碑文が記念碑のどこに彫られるか、どんな内容の碑文を記すのかによって縦書き・横書き、右向き・左向きを決めていました。例えば、オベリスクや柱、彫像の背柱など縦長の部分に彫るときは縦書き、軒縁や扉のまぐさ、建築物の基礎部分など横長の部分に彫るときは横書き、場面のタイトルは横書き、場面の中に登場する人物の名前やエピセット、言葉などは縦書き、石碑に彫られた戦勝報告や勅令などは横書き、宗教テクストは常に縦書きですね。文字の向きは通常は右向きですが、建築物に彫られるときは文字は建築物の中心を向いています。門や建築物の正面はシンメトリーに彫られます。ヒエログリフは、縦書き・横書き、右向き・左向きのいずれでも、美しく彫ることが出来る非常に優れた文字だ と言えますね。(西村)
質問110. ローマはなぜエジプトにまで影響を及ぼすことが出来たのですか? (絹田)
プトレマイオス朝は、フェニキア沿岸の東西交易の拠点をめぐって、たびたびセレウコス朝シリアと戦争をしていました。しかし、プトレマイオス5世がキプロス以外の海外の全領土を喪失し、ローマに援助を求めたことによって、ローマの干渉が始まりました。さらにプトレマイオス6世以降王家では兄弟姉妹の権力争いが激しく、ローマに内政干渉の絶好の口実を与えることになりました。ファラオ時代王が自分の姉妹や娘たちと結婚することは、王家の財産を分散させずに維持するのに役立ちましたが、プトレマイオス時代の王家の兄弟姉妹婚はまったく逆だったのですね。クレオパトラ7世の死後、エジプトがローマ帝国の属州となり、ローマの穀倉として徹底的に搾取されたことはご存知の通りです。(西村)
質問111. zbi n kA.fとはどういう意味ですか? (道下)
直訳すると「自らのカーの下へ行く」であり、古王国においてよく使われた「死ぬ」の慣用表現でした。カーとは何か? なぜこの表現が「死ぬ」を意味するのか? 人は生まれるとき、神からカーを与えられます。カーは「生気、活力」です。人が元気に活動出来るのはカーのおかげです。カーが弱ると、心身ともに疲れ、病気がちになります。カーが離れると、人は死にます。生前のように元気に活動するために、死者のバーはカーの下へ行きます。バーとカーが一つになると死者はアクと呼ばれる霊的存在になり、日中墓から現れて、神々のようにあちこちへ移動することが出来ます。ただし、夜にはバーはミイラにされた自分の遺体に戻ります。そして死後もカーが弱らないように食べ物が墓に供えられます。(西村)
質問112. 古代エジプト人はプントの人々と何語で話したのですか? (鈴木)
プントの位置は東スーダンかエチオピアのエリトリア地方と考えられています。現在これらの地域ではアフロ・アジア語族の中のエチオ・セム語あるいはクシ語が話されています。古代でもこれらの地域ではエチオ・セム語あるいはクシ語が話されていたと思いますが、果たして通訳がいたのかどうかが不明です。エジプトによるプント遠征は、古王国第5王朝のサフラー王、ジェドカーラー・イセシ王、第6王朝ペピ1世の治世の後、第18王朝ハトシェプスト女王の治世まで行われず、なんと約800年ぶりだったからです。しかも、ハトシェプスト女王のプント遠征は、女王の葬祭神殿に彫られた碑文の中にプントの女王が話した言葉が記されているにもかかわらず、沈黙交易、すなわち無言のまま物々交換をする方法だったと言� ��れています。プント遠征はラムセス3世の治世まで散発的に行われましたが、一体何語が話されたのかは不明です。(西村)
!doctype>ソロモンのトニ·モリソンの小説ソングに, 1文字, 牛乳の叔母ピラト, ないへそを持たないものとして説明されて, 前駆細胞との接続の証拠はない, ない根なし. それは常に想像できなかった, 不可能な画像.
!doctype><資料と解説>
日本人はなぜ、地震常襲列島の海辺に「原発銀座」を設営したか?
- 3・11原発震災に至る原子力開発の内外略史試作年表 -
Why Japanese Put up Strings of Nuclear Plants along
Their Quake-Prone Archipelago?
- A Historical Chronology of the 3.11 Fukushima Nuclear Disasters -
佐々木 洋
要旨:
歴史は繰り返さないまでも、その韻を踏む。小論は、第二次大戦前夜から3・11原発震災が起こるまでの、わが国の原子力開発の経緯を歴史的に理解する予備作業として、わが国内外の安全保障と原子力開発の展開史を鳥瞰する年表を試作してみた。核兵器の開発戦略から完全に分離された、純民生用の「原子力の平和利用」としての原子力発電は、わが国を含め、存在しない現実に照らし、原発の開発の歴史を、核兵器の開発との関連を意識して編集に努めた。3・11の経験を踏まえて、内外の原発の歴史を検証することのなかには、わが国の良識派をもって自任する人々が共有してきたと思われる世界観や歴史観を問い直す課題も含まれる。
(キーワード:軍産複合体 核開発 東西冷戦 スターリン体制 核燃料サイクル 六ヶ所村)
【1】世界現代史および日本現代史の分水嶺としての3・11原発震災
2011年3月11日に東京電力福島第一原子力発電所で起きた同時多発的原子炉事故、あるいは石橋克彦のいう「原発震災」(地震による原発の放射能災害と通常の震災とが複合・増幅しあう破局的災害)が、世界と日本の原子力発電の歴史における大きな分水嶺になることは間違いない。
わが国の原発問題の必読書、吉岡斉(2011)『新版 原子力の社会史』(朝日選書)が指摘するように、私たちは福島原発震災に関して、「なぜそれがソ連で1986年に起きたチェルノブイリ事故に次ぐ、史上最大級の原子力事故に発展してしまったのかについて、基本的に考え直す必要がある。そのためには歴史を検証する必要がある」(同書398頁)。同書は、日本の原子力開発利用の歴史を、草創期から、3・11原発震災までをカバーする鳥瞰図的な通史として描いた労作である。こうして私たちは、幸いにして、わが国の原発問題を考える際に、どうしても不可欠な、日本の通史的な座標軸を与えられている。
福島原発震災は国際社会にも多大な衝撃を与えた。オバマ政権は、空母ロナルド・レーガンを派遣し、トモダチ作戦を展開した。『琉球新報』は、「兵士の献身的な働きぶりには敬意を払う」としつつも、「半面、彼らが所属する海兵隊が戦後沖縄でどれだけ傍若無人に振る舞ってきたのか。その点にも思いを巡らせてほしい」と指摘した。米誌WSJは、日本が、米国の現代戦を研究する上で「思いも寄らない実験場」となり、米海兵隊当局者は、トモダチ作戦が、「最悪の戦争シナリオに対する米軍の対応を研究する上で有益だったとの認識」を示したという1。また、菅政権による浜岡原発の停止措置は、横田や横須賀の風上にある浜岡を懸念する米国の意向であったとも言われる。
平和憲法をもつ日本は、原子力基本法、非核3原則、NPT条約加盟などから「核武装の意向」を否定してきた。日本人の多くも、わが国の核武装はありえないと考えてきた。ところが、日本が原発大国化してくる過程で、国策としての「再処理-国産高速増殖炉路線」は、一度も見直すことなく現在に至っており、2006年3月からは、青森県六ケ所村に建設した大型再処理工場でアクティブ運転を始めてきた。こうして大規模なプルトニウム利用計画を堅持する日本は、かねて、内外から、核武装の意図を疑われてきた。日本はすでに核兵器製造に必要なものの大半は入手しているし、核兵器の運搬手段に転用しうるロケット技術も確保している。3・11はこうした日本で起きた原発震災であった。それゆえ、わが国の原発問題の歴史的な検証は、日本の現代史にとどまらず、日本がおかれた国際関係の歴史的なかかわりのなかに位置づけて進めていく必要があろう。
そこで筆者は、第二次世界大戦の前夜から3・11原発震災が起こるまでの、わが国の原子力開発の経緯を理解する予備作業として、わが国内外の安全保障と原子力開発の展開史を鳥瞰する年表を試作してみた。年表は、核兵器の開発という軍事戦略から完全に分離された、純民生用の「原子力の平和利用」としての原子力発電が、歴史的に存在しなかった現実に照らし、原発の歴史を核兵器開発との関連性を意識して整理・編集に努めた。
3・11を経験したあとで、内外の原子力発電の歴史を検証することのなかには、わが国の良識派をもって自任する人々が共有してきたと思われる世界観や歴史観を問い直す課題も含まれる。
拙論の主眼は、3・11原発震災を、内外現代史の分水嶺として理解する一材料としての年表を試作することにあるが、以下に、筆者が、年表の時系列的なフォローでとくに考慮した視点について3点に限り概略し、次いで作表レイアウトと主要な参考文献について述べておきたい。
【2】歴史は繰り返す:歴史アナロジーの素材として
年表の作成で着眼した第一は歴史のアナロジーである。歴史は繰り返す。あるいは、マーク・トウェインの格言が示唆するように「歴史は繰り返すことはない。だが往々に韻を踏む」。
地震国であり被爆国でもある日本が、3・11原発震災を起こした歴史を検証するためには、原発もしくは原子力エネルギーが、いかなる世界史的な所産であるのかに関し、もう一度、アジア・太平洋戦争の敗戦という原点に立ち戻る必要があると思われる。
日本軍が、泥沼化していた中国戦線に加え、1941年12月の真珠湾攻撃とマレー作戦により、東南アジア全域と太平洋にまで戦線を広げたことから、第二次世界大戦は、まさに日本によって、人類史上空前の「真の世界戦争」へと発展した2。米国は、1941年3月の武器貸与法の制定により、中立政策を放棄していたものの、パールハーバーにより、国内になお残る「孤立主義」や厭戦ムードが跡形もなく消え、原爆開発に向けて軍産学を総動員する「マンハッタン計画」が本格的に動き出した。日本こそが、「核の時代=プルトニウムの時代」を引き寄せる陰の主役になったのである。
加えて、対日原爆投下がなければ、原爆の完成も、それゆえ副産物としての原子力発電もなかった。ドイツが核開発を断念したことは、1942年半ばに判明しており、ナチスの原爆開発は連合軍による43年12月のノルウェー重水工場破壊によりとどめを刺されていた。だが、ドイツの降伏が間近に迫った1945年4月に、米軍は日本への原爆投下先を決める目標委員会でその対象を絞り込んでいく。かくして、ナチスより先に原爆を作るという「マンハッタン計画」の競争が、日本が降伏する前に原爆を完成させ、実戦で使用する競争へと転換する。原爆開発の中心人物レスリー・グローヴス将軍らは原爆が使用される前に日本が降伏するのを死ぬほど恐れていた。使用せずに終戦となればマンハッタン計画は容赦のない調査と非難にさらされる懸念があったからだ3。
!doctype>
今、滝CHANnel見た!
野球大会のやつなんだけど…
山田くん映らないぃ~(笑)
というかJUMPメンが映らない(泣)
でも、たまにチラチラと映る
てか、マラソンの勝利…
『コース間違えたので
アルメニア/トルコの歴史
「アッラーフアクバル!」
「はいはい、あっらーふあくばる」
「ようこそイスラム近現代史の授業へ!
この授業では、愛と慈悲にあふれるイスラム教への更なる深みを学んでいただきます!
講師は私、血の教典のモズグスが務めましょう」
「テッサ先生もおっしゃっていましたが、近現代史こそ本当に学ぶべきものです」
「ということは、ぶっちゃければこっちのほうが本編より大事なのか?」
「そんなことはありません、本編はイスラームの誤解を解き、イスラムへの理解を深めていただく為に行っているのです」
「理解を深めるとか言ってるけど…おっさん、あんた異教徒は殲滅だとかぬかして、イスラムの印象がんがん悪くしてんすけど」
「師に向かっておっさんとは何事ですかエクセルさん!貴方には信仰が足りないようですね!」
「御師匠様!アレだけは堪忍を!」
「(まあ、モズグス師はマジカルイスラーム世界のマジカルイマームだから問題ないですよね)」
「現代史についてはこちらでも取り上げてもらえるかもしれません」
「今回はこの国の歴史について語りましょう
大国トルコ、黒海沿岸の国グルジアに面したこの国はアルメニア共和国と申します」
「(この地図、外務省公式から持ってきたけど…許可とかいるのかしら…?)」
「ほー、トルコとイランに挟まれておりますなあ…どんなイスラム国なんすか?」
「はい?アルメニアはキリスト教を国教とする国ですよ」
「んー?イスラム狂いのおっさんが、なしてキリスト教の国なんぞ?」
「イスラム狂いとはどんな造語ですか!信仰に狂いもやりすぎはありません!」
「いやー…あの、キリスト教が嫌いな師が、なんでキリスト教国の歴史について教えてくれるのかなあと」
「ふむ…それを理解していただく為に、改めてこの地図を見て感想を述べてみてください」
「一言で言えば最悪の立地、ですよね
イスラム教圏の大国に挟まれて、おまけに少し上に行けばロシアが見えてくる、いかにもキナ臭い地域かと」
「ん?ロシアやイランが怖いのはわかるが、トルコは違うだろ?
宗教に寛容で日本に優しい超優良国家じゃないのか?」
「エクセルさん、確かに私はトルコを素晴らしい国だと喧伝して参りました
エルトゥールル号事件を題材にしたFlashの登場、先のサッカー大会でのトルコの態度もありますし、恐らく日本におけるトルコの印象はここ数年格段に上昇したでしょう
しかしトルコもやる事はやる国だという事は理解しなければなりません」
「なんだ、トルコもなんか黒いことやってきたのか」
「というか、日本以外の国はやる事はちゃんとやってるんですよ、センパイ
日本はやる時にやる事をやらなかったおかげで外交後進国になってるんじゃないですか」
「はあ…金ばら撒くだけで皆親日国になってくれりゃ、楽なんだけどな…」
「ちゃんとやる事をやる大国トルコ、そして赤いロシア(ソ連)
二つの国に挟まれたアルメニアの歴史はまさに激動の歴史でした
ところでこれは小話ですが、世界の歴史上キリスト教を初めて国教に認定した国を御存知ですか?」
「ヴァチカン?」
「いえ、ヴァチカンが誕生したのはへたれドゥーチェ時代ですよ
まあローマじゃないのかしら?」
「そう思われるのが普通かもしれません
しかしテオドシウス帝が391年にキリスト教を国教に定めるより90年も前にキリスト教を国教に定めた国があったのです
それが当時ローマの属国であったアルメニア王国でした」
「ということは、アルメニアはばりばりのキリスト教国ってことですね」
「ええ、アルメニアにはノアの箱舟の舞台となったアララト山もありますし」
「それじゃあキリスト教徒にとってアルメニアは特別な国の一つになるな」
「アルメニア王国はビザンツとササン朝の緩衝国として生き続けました
しかしそのササン朝は南方よりやってきた新興勢力により打倒されました
そう、正統カリフ時代のイスラーム教団によってです
アルメニア地方はその後ウマイヤ朝、アッバース朝の勢力圏下におかれました」
「アルメニアにとって不幸中の幸いなのは、イスラム帝国が異教徒にある程度寛容であったということですね」
「ええ、ジズヤとハラージュさえ払えば信仰の自由は約束されていましたから
アッバース朝時代にはアルメリア人の官僚の姿もあったといいます
しかしその次の時代、セルジューク朝の統治に入るとアルメニアに不幸が訪れました
セルジューク朝のトルコ人は敬虔なイスラム教徒であるが故に寛容を忘れ、異教徒を憎む存在であったからです
頼みの綱のビザンツはマンジケルトで大敗し、小アジア全域を喪失しました
更にそれから数百年後にやってきたのが、あのモンゴルです
モンゴルの大襲来によりアルメニア地方は極度に荒廃し、多くのアルメニア人は国土を離れました」
「アルメニア人はジプシーみたいなものか?」
「んー、ジプシーというかユダヤ人や華僑みたいな感じと思われたが宜しいかと」
「というかセンパイ、なんでジプシーみたいな難しい言葉知ってるんですか?」
「昔、本拠地の無かったロッテが、ジプシーって例えられてた時代があってなー
ところでジプシーってそんなに難しい言葉か?」
「(センパイのレベルでは、ですよ)」
「さて時代はオスマン帝国時代に入ります
オスマン帝国は領内のアルメニア人に対し、信仰の自由、政治的自由だけでなくアルメニア人の自治権を認めました
アルメニア人の大司教がイスラム教の帝国首都で活躍できたのです
このおかげで、アルメニア地方からアルメニア人がオスマン帝国領内に流出しました」
「この当時のアルメニア地方はどの勢力下に置かれていたのですか?」
「ペルシャのサファヴィー朝です
ここで重要なのはオスマン帝国はスンニ派、サファヴィー朝はシーア派であったということです
おのずと両国は争いを開始し、アルメニア地方は再び戦いの舞台になりました
他宗教に寛容でなかったサファヴィー朝はアルメニア人に強制移住と改宗を強い、アルメニア人は救いを西欧のキリスト教徒に求めました
しかし植民地獲得や遠方貿易に忙しかった西欧諸国は介入を拒んだのです
そこでアルメニアの人々が頼ったのが東欧のキリスト教国、ロシア=ロマノフ朝のピョートル大帝でした」
「ロシアって単語だけでこれからなんか酷い事が起きる予感がするな」
「センパイ、ロシア=悪ってのは安直すぎますよ
ただロシアはやる事は絶対徹底的にやる国なんです」
「まあ実際に悪いのはキ印の指導者であって、ロシア自体がどうというわけではありませんが」
「この時代のロシアはこちらがとってもわかりやすく説明してくれています」
「人任せにするのもどうかと思うけど、世界史コンテンツも増えたし、こういうリンクもありなのかなー」
「大帝は近代化と不凍港獲得を旗印に、拡張政策を取りました
そこにペルシャのアルメニア人が援助を申し込んできたのです
ペルシャの政情、地理情報をアルメニア人から掴んだ大帝は、サファヴィー朝の打倒が容易だと思ったようです
その橋頭堡として黒海東部山脈部コーカサス地方を平定したロシア軍ですが、直後サファヴィー朝はアフガン人に大侵略を受けました
ここでペルシャ情勢は一転します
アフガン人はスンニ派であり、ペルシャにアフガン人の王朝が確立された場合、オスマン帝国とアフガン王朝は手を結ぶでしょう
するとロシアの南下は難しくなってしまいます」
「いくらオスマン帝国が弱体してたとはいえ、ロシア帝国単独で渡り合える相手ではありませんしね」
「そこで大帝はサファヴィー朝を援助する名目で、サファヴィー朝勢力を味方にします
武装蜂起したアルメニア人とともに南下を再開しますが、流石のオスマン帝国はロシア軍を跳ね返し、ロシアは撤退しました
残されたアルメニア人はゲリラ戦で持ちこたえますが、アフガン人に押され抵抗は弱まりました」
「この頃はロシアも大変だったんですなー」
「北方とはなにかと勝手が違いますしね」
「大帝の死後はロシア帝国内の動乱により南下は止まりましたが、エカテリーナ二世大帝時代には再開されました
ついにロシアとオスマン帝国の全面戦争、露土戦争です
この戦いはロシアが優勢で、1774年のクチュク・カイナルディ条約によりロシアがクリミア半島を獲得し、黒海へ進出するキッカケを得ました
ロシアの南下は止まらず、グルジアに進出すると反抗的な部族を村ごと葬りつつ、グルジアを併合をしました」
「無敵のオスマン帝国の化けの皮がはがれましたなー」
「いよいよロシアはコーカサス地方に進出できましたね」
「ええ、コーカサスまで出れば次はいよいよペルシャです
しかしここで大問題が発生しました
ロシアの皇帝パーヴェル一世が、インド進出を想像させる軽口を叩いてしまったのです」
「あらまあ、こりゃイギリスが黙っちゃいませんよ」
「もちろんかねがねロシアの南下に脅威を覚えていたイギリスは、皇帝の言葉に震撼しました
イギリスはトルコとペルシャを支援しロシアの南下に備えると、ロシアも対抗意識を燃やし南下政策を推し進めました」
「なんでまたパーヴェルさんはそんな軽口叩いたんすか」
「一説にはパーヴェル一世は誇大妄想持ちだったと言われていますが」
「誇大妄想か…まあこの世の中には誇大妄想狂の指導者たくさんいるけどな…」
「世界征服をガチで企んだり、世界を赤化しようとしたり、そういう人が大国の指導者になると愉快ですよね」
「愉快な奴らのおかげで何人死んだやら…」
「そういう人間が出ない為にも、世界をイスラム教で統一し、神の教えの下、粛々と生きてゆく必要があるのですね」
「おっさん!そりゃあんたが一番の誇大妄想狂だ!」
「誇大妄想と理想を一緒にするんじゃありません!」
「(まあ、理想も行過ぎると誇大妄想になるわね…)」
「しかしイギリスの思惑とは逆に、シーア派王朝のペルシャはオスマン帝国との闘争を再開
更にペルシャはロシア帝国にも戦いを挑みましたが、ロシアとペルシャではまるで大人と子供です
1828年、戦いに勝ったロシアはペルシャのガジャール朝とトルコマンチャーイ条約を結び、アルメニアはロシアに併合されました」
「出たー!受験生泣かせの条約!トルコマンチャーイとか言いながら、ロシアとペルシャの条約か!」
「(まあトルコマンチャーイ条約自体、そうそうテストに出ませんが…)」
「ここにいたり、アルメニアはいよいよキリスト教圏に組み入れられました
勢いは止まらずロシアはコーカサス地域を確固たる支配にする為、露土戦争を再開しました
もはやオスマン帝国に反撃する力は無く、 ロシア有利のアドリアノープル条約を結びます
!doctype>Kerri Smith
doi:10.1038/ndigest.2012.120402
将来、形成されると予想される超大陸アメイジアは、北極海に誕生する可能性が。
Heidi Ledford
doi:10.1038/ndigest.2012.120403
小児期から老年期までの認知機能の安定性を追跡した研究から、認知機能に与える遺伝的影響の程度が明らかに。
Ewen Callaway
doi:10.1038/ndigest.2012.120404
赤ワインの成分レスベラトロールの作用機序について、新たな見解が。
Zoe Cormier
doi:10.1038/ndigest.2012.120405
遺伝子組み換え大腸菌により、海藻から直接エタノールを生産することが可能に。
doi:10.1038/ndigest.2012.120406a
間隔を変えて繰り返すのが最良の学習法らしい
doi:10.1038/ndigest.2012.120406b
ハワイ諸島に流れ着いてサンゴ礁を害する心配がある
Yoshihiro Kawaoka
doi:10.1038/ndigest.2012.120407 Original source: Nature (2012); doi:10.1038/nature10884
2001年9月11日:私たちが見た
H5N1鳥インフルエンザ研究をめぐり、議論が巻き起こっている。インフルエンザ研究者、河岡義裕は、インフルエンザのパンデミック(世界的大流行)を防ごうとするなら、哺乳類で伝播する鳥インフルエンザウイルスの研究を継続することが必要だと主張する。
Paul S. Keim
doi:10.1038/ndigest.2012.120409
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「D.B.E. 三二型」:「ヒトラーの頭がい骨」,実は女性のものだった 米研究で明るみに / 情報源Ak
「D.B.E. 三二型」(2011/01/22)◆ヒトラーの未公開写真を競売 390万円で落札 英国
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「やる夫がフューラーになるようです」番外編 やる夫と「メトロポリス」
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第2章
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第3章(前)
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第3章(後)
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第5章 後編
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第6章 後編
『ナチ略奪美術品を救え』(ロバート・M・エドセル著,白水社刊,2010.12)
ナチス高官による大陸の美術品略奪を描いた,『ヨーロッパの略奪』との対を為す本.
こちらは,米英軍内に設けられた,文化財保護の為の特殊部隊MFAAの活躍を描いた本で,北アフリカと米国で別々に生まれた文化財保護部隊が,イタリア戦線までは歴史的建造物の保護を目的にしていた事を描き,ノルマンディー以後は,ゲーリングとヒトラーを中心としたナチス幹部が,ローゼンベルク機関に代行させた美術品略奪から,それを取り戻すまでの過程を描いている.
たった60名の,2等兵から佐官までの人々のうち,8名の活躍を取り揚げ,様々な伝手や資料を駆使して,美術品を取り戻す驚異的な粘りと,戦闘中,命を落とす事も少なくなかった事などが明らかになっていく.
大著だけど,結構読み応えのあっ� �本でした.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2011/07/09(土)
『ヒトラーの経済政策』(武田知弘著,祥伝社,2009,4)
すげえトンデモだよ.著者の主張は
「今の管理通貨制度のようなものを,ナチスは既に実践していた!」
というものだね.
ケインズが褒めていたとか,独逸の行った画期的な通貨制は,不況を脱しするに有効だったが,戦後アメリカによって世界は金本位制に戻された,とか.しかしあの政策は,その経済政策を採ったシャハト博士の功績なんだがね.
で,せっかく上手く行きそうだったのに,ヒトラーが再軍備始めておじゃん.
再軍備はヒトラー政権以前からの志向であり,政権獲得に際しての軍部との約束でもあったからなあ.
だもんで就任直後から本音をバラして,金を使い始めたり….『大国の興亡』(ポール・ケネディ著,草思社,1993.3)の下巻� ��も,その辺は詳しく述べられている.
あの本の執筆者は,『大国の興亡』すら読んでないんじゃないかね.内容を読んでて,どうもおかしいと思っていたが,著者が1967年生まれで,経済学部中退の只のライターと知って納得した.
他の著作も見てみたが,似たりよったりだったな.
新書は,本職の研究者が一般人向けに書いた概説書と在野の人のトンデモ本との落差が激しいね.が,アマゾンでは好評で,2chではこの本を元に演説する人も….
――――――名無しの愉しみ(黄文字部分)他 in 軍事板,
2009/05/15(金)〜05/16(土),06/10(水)
青文字:加筆改修部分
『ヒトラーの最期 ソ連軍女性通訳の回想』(エレーナ・ルジェフスカヤ著,白水社,2011.6)
やっと読了.本題自体は,1964年にソ連で初版が出て,ヒトラーが1945年4月に地下壕で自殺していた事を,初めて世に知らしめた古典なのだが,その後幾度か改訂を経て,今回もソ連の崩壊で新たに入手出来た資料,また西側の補完資料,そして,検閲で削除されたものを加えた改訂が行われている.
勿論,ヒトラーの歯形を解析する辺りがこの本の頂点なのだが,そこに至る前に,モスクワ攻防戦において,ルジェフで初めて著者が戦争に通訳として加わった(そして,ペンネームをルジェフスカヤとした)事や,以降の戦争の様相も書かれていて興味深い.
また,戦争に派遣する通訳の為の辞書を作っていた軍司令部が,最後の最後に辞書の不備に気がついた話も面白かった(罵倒語の辞書がなかったのだ)� �論の他に,幽閉されていた死の直前のジューコフとの会見記もあって,興味深く読んだ.
つか,ジューコフの回想記も,日本では1970年に朝日から出されたのが最期だが,その後,検閲解除版がソ連崩壊後に出されているので,そろそろこちらも改訂版が欲しい所だったりする.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/10/01(土)
青文字:加筆改修部分
『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック著,文藝春秋,2010.1)
邦題が少しおかしいけど,読書人として見た総統評伝.
ヒトラーの個人蔵書は約16300冊,軍事関連書籍は約7000冊.
戦史,軍服,武器,補給品,動員,訓練,士気,弾道学,あらゆる分野を網羅.
7000冊の多くを明らかに読破している.建築,演劇,絵画,彫刻関係が1500冊.
他には社会学,占星術,栄養・食事療法関連,教会関係等など.
大衆小説が800〜1000冊.推理主説,冒険小説を愛読していた.極度に集中して読書する性格で,1日1冊は読む.
徹夜もしばしば.
書斎のドアには「静粛に」の札が.
読書を邪魔したエヴァを怒って泣かした,なんて話も.――――――軍事板,2010/01/14(木)
ちょっとかじって思った.
以前このスレッドの前の前の前の前の前の 前位で,
「我が闘争の原著って幾らくらいだろうか」
と質問された時に,ヒストリカのオークションに掛けられていたタイプ原稿を,最低価格付きでカタログupしたけど,これって,この本が著された関係で掘り起こされた物だったんじゃないんかい.
そう考えると,あの時あんなんがいきなりオークションに現れたことに,納得がいくわなぁ.――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/19(火)
傑作.
当のヒトラー本人が蔵書に書き込んだ傍線・メモや,贈呈者からの献辞などを手がかりに,ユンゲ秘書嬢(「最後の十二日)のだ)等多くの関係者の助けを借りつつ,ヒトラーの思考過程を追い直すという手法は凄い.
特に,ガセ情報が多すぎるOccult/Supernatural方面の考証に関しては,これが今後の真面目なスタンダードになるだろう・・・でなけりゃ困る.ただこの板的に,1940年フランス戦役の書き方に,疑問なしとはしない.
ハルダー以下の参謀が,シュリーフェン計画に加えた二つの重要な改良が,
「イギリス軍の上陸を阻止するためにオランダに侵攻する,
及び,パリへではなくフランスの海岸線に向かう,という二点」(P269)
って…
確かにそうなんだ� �,当時,アルデンヌ方面から戦車で打って出るって事の意味合いが,これで伝わるかどうか.
他の項目でも,似た様な,結果として誤認になりかねない省略しすぎがなけりゃいいけど…――――――軍事板,2010/01/23(土)
ふお!?傑作ですかい.
ちょっと齧って思ったことだけど,アレを理解するのはかなりの雑学知識が必要だよ.
グラントの優生学が,あからさまに確信的に,残酷に纏め上げられているなんて,読んでも居ない私に解かるわけもなし,
ショーペンハウエルの澄み切った理解力なんて,著書を読まなければ読者たる我々には判断できんのよ.
ニーチェを芸術家と位置付けている事も然りで,なぜヒトラーがそう思ったのかなんて,それらを読まなければ解かるわけがない(笑)――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/24(日)
『もし高校野球の女子マネージャーがヒトラーの「マイン・カンプ」を読んだら』
第三帝国の「顧客」とは? 支配人種の資質とは? 国家社会主義におけるイノベーションとは?
フェルキッシャー・ベオバハター紙で絶賛!最高の感動型政治論集! 国家とはなにか,民族とはなにかこれでもかと訴えてくる.
オペルブリッツ車内にもかかわらず,思わず男泣き(国防軍兵士)物語形式でとてもわかりやすく読めました.「マイン・カンプ」でこんなに感動するとは.
後半の盛り上がりには手が震えました(親衛隊全国指導者)ベルリンへ撤退中ですが,一旦行軍を中止してでも読むべし!
「顧客とは何か」から考えることで,東部におけるスラブ人追放やレーベンスラウム,ドイツ人入植後のイメージを膨らませることができます(国民突撃隊員)――――――軍事板,2010/08/20(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチスという言葉は政敵が付けた蔑称と聞いたのですが,SSが映画の中で
「我がナチスは・・・」
と言ってるのは誤りでしょうか?
また,ナチス派の人々は,自らをなんと呼んでいたのでしょうか?
「国会社会主義ドイツ労働者党」なんて長い名前を言ってたんですか? それとも略称があったんですか?
【回答】
ナチスもナチも蔑称.
Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiを縮めてNSDAPとかNSと呼んでいたらしい.
(写真)ナチス党大会.旗棹の「NSDAP」の文字に注意
【質問】
ナチスなどが言ってた「アーリア人」には,どのあたりの民族まで含まれるんですか?
【回答】
ヒトラーの言う(およびその先駆者達も含む)「アーリア人」は,一般的な意味での民族とは異なります.実は,ヒトラー政権ができてから,「ユダヤ人」はだれか,どう判定するのかということが議論になるくらいにいいかげんな「人種論」「民族論」です.
大雑把に言って,
1.印欧語族のことを指しているときと(反セム主義,セムとはユダヤ人を指す)
「アーリア人は,鉄器をもたらした優れた民族」
2.印欧語族の欧州諸語人をさすとき(要するにヨーロッパ人を指すとき)
「有色人種に,文明を築く力なぞない」
3.印欧語族の欧州系のゲルマン系をさすとき
4.ドイツ人を示すとき
の四つがごちゃ混ぜに使われていて,はっきり本人の中でも定義づけられていま せん.
世界史板
【質問】
ドイツ人は生粋のアーリア人なの?
【回答】
ドイツの学者がドイツ古代史について書いた本(日本語訳)を読んだことがあるが,現在の研究によれば,どうも「ドイツ人」は北方に住んでいた長身金髪碧眼の種族が,南方に住んでいた髪が黒く背が低い農耕民族と混血して形成されたものらしい,ということが判明しているのだそうだ.
北欧(スカンジナヴィア)のヴァイキング系ゲルマン人は金髪碧眼だけど,南ドイツの山岳系ゲルマン人は黒髪も多いとも聞いたことがある.
それに,北ドイツ方面になるとスラブ系の血が混じっているし,アルザス・ロレーヌ地方はフランス系住民もいる.
ズデーテンラントにしても,スラブ系との混血だってある.
東プ ロシア(飛び地)の地理的な位置からみても,スラブ系との血が混じっていてもおかしくはない.
それでアーリア人思想とか,スラブ人が劣等人種だとか,笑わせてくれる(笑)
ちなみに,ハンス・フォン・ドナンニー少佐,オットー・スコルツェニー中佐は苗字からスラブ系ドイツ人(ドナンニーもスコルツェニーも元々はオーストリア人だけど)で,アドルフ・ガーランドはフランス革命の時にドイツに亡命した,フランス貴族の末裔だと聞いたことがある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アーリア人優等説を唱えるナチス・ドイツにとって,日本人はどういう扱いだったのか?
【回答】
ヒトラーが制定した人種法は,日本にとっては憂慮の種となるものだった.
ノイラート外相はベルリンの永井松三大使の質問に対し,ドイツ国内の日本人は有色と見なされることはないと保証したとされるが,日本人・ドイツ人間の問題で,この口約に反する例が続出した.
1935年9月のナチ党大会では,「アーリアおよび非アーリア」という概念は,「ドイツおよび同種の血統のもの,ならびにユダヤ人その他の異種のもの」と公式に訂正されたが,その解釈と適用はケース・バイ・ケースとされたので,日本人にとっては満足にほど遠いものだった.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.49-51を参照されたし.
【質問】
ナチスの正式名称が国家社会主義〜〜ってあるんですけどヒトラーって社会主義者だったんですか?
【回答】
若干異なる.
本来の社会主義は国際主義という面もあって,生産手段の国家統制も世界全体を革命するための過渡的措置に過ぎない.
だから,最終的には国家を廃絶し,生産手段も富も世界中の人の共有物になり,
「各人が必要に応じて取る」
「みんな平等だから権力なんて不要」
という社会になるのを理想としている.
国家社会主義は,生産手段の国家統制を行うという意味では社会主義だが,国家廃絶を目標にしているわけではなく,あくまで国力増大の手段に過ぎない.
社会主義であるが,国家主義でもあるので,国家社会主義と言う.
だが,どこまで生産手段を統制するかの考えは人によって違いがあり,マジで
「私有財産認めない.生産手段は漏れなく国有化し� ��,貧富の差を無くすんじゃ!」
という人がいれば,
「私有財産は認める.生産手段も国有化はしないが,国の決めた計画経済には従属しろ!
貧富の差? 知るか,ボケ」
と言う人も居る.
ヒトラーは後者に属する.
(世界史板)
【質問】
ナチズムって何?
【回答】
ナチズムの本質は「反共民族主義」.
第二次世界大戦以前は,共産主義と対立する概念は王政または民族主義である.
しかし,既存の有産階級から富を取り上げて再配分を行い,国家主導で社会資本を整備するやり方は ,共産主義国の計画経済によくにているし,一党独裁によって個人へ権力を集中し強力な警察機構で言論の自由を 奪った点もまた共産主義政体に酷似している.
実施された政策で共産主義と全体主義を区別することは難しい.
(世界史板)
【質問】
なぜ今の若者がナチズムに傾倒するの?
【回答】
ナチスが政権を担っていた1929〜1945年は,最後の数年を除いて経済再建が上手く行き反映した時代でもあった.
また,現在のドイツは,トルコ人やイラン人などの外国人流入にって,治安や雇用事情が悪化している面がある.
これらのことから,いわゆるネオナチの心情には,経済的に繁栄し,他人種の排斥を行ったナチス時代への憧憬があると言われる.
世界史板
(写真)ネオナチの若者
(画像掲示板より引用)
【質問】
ナチとファシストは何が違うの?
【回答】
イタリアの全体主義がファシズム.政権党がファシスト党.
ドイツの全体主義がナチズム.政権党がナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党).
ただし,当時の反共民族全体主義政党の元祖がファシスト党であったため,全体主義をファッショ,全体主義者をファシストと通例して呼ぶ事も多い.
(世界史板)
【質問】
スターリンは右?左? ナチは右?左?
【回答】
スターリンは右翼ではなく左翼.ナチは右翼.
独裁かどうかが右翼か左翼かの区別ではないことに注意.
当時の左翼(コミュニズム)は,理想の政体として「プロレタリアート独裁」を掲げており,スターリンは思想的にはレーニンの敷いた「労働者代表による権力の集中」というレールに乗ったに過ぎない.
(世界史板)
【質問】
(このようになる可能性があったかは無視した上で,あえて)仮に対独賠償請求が常識的な金額になり,ワイマール共和国がヨーロッパにおいてまともに扱われた場合,ドイツにおけるファシズムの台頭はなかったのでしょうか?
それともファシズムの台頭は,賠償やルール占領の反動からくるナショナリズム以外の大きなものを基盤とする,回避しがたい現象だったのでしょうか?
白い狐 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【回答】
ヒトラーの台頭を招いたドイツへの戦後処理は,賠償金よりも領土問題のほうが大きかったのではと思います.
「大ドイツ主義」に基づいてヒトラーが取り返そうとしたズデーテンやメーメルの存在が,それを証明しています.
大幅な軍備制限もけっこう影響が大きかったのではないかと思ったり….
あれで軍部が恐慌をきたして,隠れ蓑部署を林立させてはワイマール政府のくびきを離れて活動する味を覚えてしまいました.
その結果,旧帝政時代の一番濃いフェルキッシュな成分が,唯我独尊な雰囲気を保ったまま軍部に保存されてしまい,初期のNSDAPへの隠れた支援へと繋がったのではないかと.
以上のことから,賠償金が常識的な額になっただけではファシズムの隆盛は避けられなかったでしょう.
個人的には,
「WW1の敗戦に際してヴィルヘルム2世がもう少し高潔な行動を取っていたら」
というのが,ナチスドイツ出現を阻止する最小の「IF」だったのではないかと….
Tono 929 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
もっとも領土問題に関しても,ウィルソンの14ヶ条が遵守されていたなら,その多くが保全されていた可能性があり,その点で多くのドイツ国民が連合国民に「騙された」と感じたのも無理はないところかと.
消印所沢
【質問】
ナチス政権下のドイツ経済は単純に言えば,
「1933年にはもう経済の立ち直りかけており,別段ヒトラーが出てこなくても問題はなかった.
むしろその立ち直った経済で,軍備増強を始めたヒトラー自体が,立ち直りつつあったドイツ経済を破壊したとも言える.
シュペアーの改革では,企業の寡占化が進んだ.
税金はアホみたいに高くなり,市場は統制され,闇市場が盛んになった」
こんな所ですか?
【回答】
ヒトラーの公約の中には,ワイマール時代に計画されていたものも多い.
たとえばアウトバーンなんかもそう.
賠償金漬けだったドイツを建て直したというのも,一方的に支払いを打ち切るという恫喝外交の成果であって,経済政策の� ��れとは違う.
ヒトラーの提唱した国家社会主義は,企業の合併・グループ化を押し進め,ドイツのあらゆる企業を巨大なピラミッド構造に収容しようというもの.
最後に頂点に立つ会社を国有化すれば,それ以下の会社もすべて国有と同じ意味になり,労働者は失業の心配がなくなるというのがセールスポイントだった.
なんだかペテンのような気がするのは,わたしの頭が悪いせいに違いない.
政権奪取は1933年だが,1936年にはもう経済が傾いているし,その1936年以降は軍事費の増大で,ドイツの行動は他国の財と資源と工場と兵器を奪う略奪に移行していく.
あのフォルクスワーゲンを買った市民は,殆ど居ないことも分かっている.
軍事板,2009/06/29(月)〜07/01(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチス・ドイツの戦前戦中の経済政策の実態について,知ることが出来る本は無いでしょうか?
「ヒトラーの経済政策 ―世界恐慌からの奇跡的な復興」(武田知弘 祥伝社新書)という本を読んだのですが,どうも基本的な歴史事実に関して間違いが多いのと,褒める割に,その部分に関するデータや参考文献の注が少ない点が気になりました.
そこで他の本で,その辺の突き合わせをしたいと思いまして.
【回答】
1920年代が中心で,1935年までのドイツの話になるけんど,
『総力戦時代のドイツ再軍備〜軍事財政の制度論的考察〜』(大島通義著:同文舘)
ドイツ財政史が専門の人だけど,結構面白かったですよ.
祥伝社新書の方がトンデモだってよく判る本です.
� �あと,部分的だけど,『国債の歴史』(富田俊基著:東洋経済新報社)には,ドイツがどうやって戦後の賠償金とインフレを押し込め,軍備に傾注していったかが,1章を割いて書いてあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
WW1後〜であれば
『ヴァイマルからナチズムへ ─ ドイツの経済と政治 1918-1945』(W・フィッシャー著,みすず書房 1982年 )
って本が参考になると思う.
経済政策とは少し違うけど,
リチャード・オウヴァリー『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』永井清彦監訳,秀岡尚子訳,河出書房新社
に,どういう人が党員になったのか,人の移動,食糧,失業者,貿易などの統計資料があるよ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜオーストリアはナチズムに抵抗できなかったのか?
【回答】
政党間の対立が苛烈で,対ヒトラー戦線を張るどころではなかったため.
以下引用.
――――――
オーストリア共和国体制の正統性〔オーストリア国民が共和国をハプスブルク帝国の後継国家として,忠誠心を向ける対象となれるための何らかの権威〕が既に弱かったことを考慮すれば,早くも1920年代には苛烈を極めていた政党政治が,その後の数十年間にさらに悪化したのも当然である.
社会主義者にしてみれば,ドルフスとその支持者が主張しているオーストリア愛国心は,権威主義支配と反動的政策を覆い隠すものでしかなかった.
ドルフス政権と社会主義者の間で1934年2月に発生した一時的な内戦により,政党間の憎しみはさらに強まり,その5ヵ月後にはオーストリアのナチスによるクーデターでドルフス自身が暗殺された.オーストリアが団結して対ヒトラー戦線を張るという可能性は全くな� �った.
オーストリアの政党政治が激烈だったのは,程度の差はあれ,経済危機の他,共和国に基本的な正統性がなく,1930年代のけるヨーロッパ政治全体がイデオロギー的に酷く分裂していた状態を反映していた.
加えて,1914年以前のオーストリアと比較してみれば,政党間の争いを仲裁したり,必要なら抑圧したりする絶対的な帝国や官僚機構も存在しなかった.――――――Dominic Lieven『帝国の興亡』」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.238-239
「次はチェコget」
【質問】
ヒトラー時代のドイツを「第三帝国」と呼ぶのはなぜですか?
【回答】
通説では,ナチスは,過去の栄光と自らを結びつけるため,神聖ローマ帝国を「第一帝国」として,再統一のドイツ帝国を「第二帝国」として数え,自らの国家を「第三帝国」と称したとしばしば言われるが,「第三」という語のドイツ語の「dritte」には「未来」の意味があり,ナチスのいう「DasDritteReich(第三帝国または第三の国)」とは,「未来の国」の意があり,ナチスのユートピア観がこめられているといわれる.
ヒトラーは将来,第三帝国における首都の新名称を「ゲルマニア」とするつもりであった.
(世界史板)
【質問】
ナチスのSSの制服について詳しい本教えて下さい.
【回答】
SSの制服と一口で言われても,黒服,通常制服,迷彩服,パンツァージャケット等,色々とある.
個人的オススメだと,並木書房の『ドイツ武装親衛隊軍装ガイド』と『第2次大戦ドイツ軍装ガイド』かな.
ただし前者はマケプレも高めなので注意.
他には文林堂のグラフィックアクション.シリーズも面白い.
(俺は90年代以降の新シリーズしか読んだことがないけど)
黒服なら,いずれも古書もしくは洋書になるが,制服制定の経緯や概要についての知識を押さえたいなら,
・原書房刊,ロビン・ラムスデン著 知野龍太監修:
「ナチス親衛隊SS軍装ハンドブック」
現存する服の詳細を見て,服や徽章の材質や生地・縫製の詳細を知りたいなら,上記のネタ本である「SS-REGALIA」や,米Schiffer社辺りから出てる洋書の写真集を西山洋書辺りで買うのが吉.
!doctype>ベンアフレック監督・主演で「The town」という映画が日本でも
近々公開される。銀行強盗の話だ。予告編をみて面白そうだなと思っていたら、
なんと舞台が僕が働いていたチャールズタウンではないか。(ボストンの隣町)
ナレーション:
「年に300件以上の銀行強盗が起こるボストン郊外のチャールズタウン。
全米一、銀行強盗発生率の高い街である。。。」
ほざけ。
これは僕の知っているチャールズタウンではないぞ。
チャールズタウンは金持ちしか住んでいない田園調布的なイメージなのにぃ。
街も綺麗だし、そもそもボストン郊外というが、
ボストン市内まで歩いて5分だぞ。むしろボストンと言っちゃっていいくらいだ。
どういうこっちゃ。
とまあ、そんなチャールズタウンにある会社に4年間勤めていた� ��だが、
会社の目の前にバンカーヒルモニュメントという記念塔があった。
なんでもバンカーヒルの戦い(Battle of Bunker Hill)でイギリス軍と
!doctype> @Eł̎ȍ̋]Ґ im Zweiten Weltkrieg Bd.6ɂB(3)hCcR̐펀Ass75͓im Zweiten Weltkrieg Bd.6 Akademie Verlag, @Q̓́A픚̗N猻ꂽPChɎn܂Ǎ͓ɔAaÂbB i傤jAAxȂǁAٓiȂj픚҂̏Qiǂ┭sSȂǁjȂǂɁA ݂܂B @ɁA̔ȌɍLsɓlтƂɂAcː̉eŔa⎀Sƍl鎖Ⴊ ܂B @ suqV}̐S`iThe Spirit of HIROSHIMAjvz[y[WuLɓꂽqevt |
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毎年4月25日はAnzac day(アンザック・デー)と呼ばれるニュージーランドとオーストラリアの祝日です。
そしてニュージーランドにはアンザック・ビスケットというビスケットがあります。
この2つ。同じアンザックという言葉を使っていますが、何か繋がりがあるのでしょうか。
両方とも同じ綴りAnzacです。この2つにどんな繋がりがあるのか調べてみることにしました。
Anzacというのが、そもそも何なのか。そこを調べてみないと話は始まりません。
Wikipediaで調べたらすぐにAnzacの意味がわかりました。
Anzacというのは、Australia and New Zealand Army Corpsの略で、第1次世界大戦においてニュージーランドとオーストラリア出身の志願兵によって編成された軍隊のことでした。
Anzacがニュージーランドとオーストラリアの志願兵で作られた軍隊とわかれば、Anzac Dayがどんな日かおおよそ見当が付くと思います。
!doctype>第2次世界大戦後における欧州統合の発展 |
欧州統合の発展過程は、以下で説明するように、一つの段階が終了すると次の段階へ、また一つの政策が成功を収めると次の政策へと、段階的に発展してきた(いわゆる Spill-over-effect)。EUの発展過程は、まさにpoint of no return であったといえる。EUからの脱退、特に、1990年代は、経済・通貨同盟からの脱退について論じられたが、現実的にはそれは不可能であると考えられる。
1. 第2次世界大戦直後の動き − 緩やかな欧州統合 |
第2次世界大戦後、旧ソ連を除くヨーロッパ各国の衰退は露になった。大戦の実質的勝者は、アメリカと旧ソ連であり、両大国の力関係の都合で、ドイツは東西に二分された。両大国の狭間にあって、西欧諸国は、相互の軍事対立を回避すること、また、国際舞台における政治的発言力を強化することを政策目標に掲げたが、これが欧州統合の原動力となっていることは、今日においても変わりがない。
欧州統合は、特に第2時世界大戦後に著しい発展を見せたが、その過程において重要な点は、@戦禍によってヨーロッパは荒廃したことと、A東西対立の激化に伴い、西欧諸国は、アメリカの軍事ないし経済支援を受けたこと(そういう意味で、西欧諸国統合の基盤は整っていたといえる)である。また、B敗戦国ドイツは二分されたが、どのようにすれば西ドイツを西側陣営に適化させ、また国際舞台に復帰させることができるかどうかということも、欧州統合の論点の一つであった。
第2次世界大戦が終了した翌年(1946年)の9月19日、元イギリス首相のウィンストン・チャーチル (Winston Churchill) は、ヨーロッパ各国は協調すべきであることを力説し、アメリカ合衆国に類似する「ヨーロッパ合衆国」の設立を提唱した。また、ドイツとフランスの和解が何よりも大切であることを指摘した。もっとも、チャーチルの祖国イギリスは、彼が説く欧州統合に消極的であった。 | Winston Churchill (1874〜1965) |
それは、当時、イギリスは、主権の譲渡に反対していたこと、大陸諸国よりも英連邦(Commonwealth)との関係を重視していたこと、また、自国は米ソに並ぶ超大国であると考えていたことなどに基づいていた。 |
チャーチルの見解に共鳴し、西欧諸国間には幾つかの国際組織が編成された。例えば、経済面では、1948年より実施されたアメリカの欧州経済復興援助計画(マーシャルプラン)の受け皿として、西欧17カ国でOEEC(欧州経済協力機構)が結成された。その後、OEECはOECD (経済協力開発機構) に改組された。
より一般的な目的で設立された国際機構としては、欧州評議会(Council of Europe)が挙げられる(1949年設立)。同評議会は、諸国の統合体というよりは、統合のあり方について討論するためのフォーラムといった役割を有するに過ぎないが、1950年には人権保護を目的とした条約(欧州人権条約)を採択するなどの成果も挙げた。欧州人権条約は、ヨーロッパの公序として、また、広い意味でのEU法として重要である(参照)。欧州評議会の場では、この人権尊重の精神の他に、民主主義の重要性も強く認識されることになった(EUによる欧州人権条約の締結については こちら)。
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| 独立式典とルムンバの演説 |
| コンゴー動乱の始まり |
| ベルギーの出兵とカタンガの分離独立 |
| 国連軍の介入 |
| ルムンバの決断と挫折 |
ついに約束の6月30日がやって来ました。前日の29日にはベルギーのボードワン国王がレ
オポルドヴィルに到着しました。ンジリ空港では国王の優しい人柄からしてコンゴ側からも丁重
な出迎えを受けました。でも、国王は、1955年に訪問した際の歓迎の熱烈さと何か違うものを
感じていたはずです。
独立式典はコンゴ河沿いの高級住宅地区カリナに建てられたパレ・デ・ナシオン(国家宮殿)
で行われました。この建物は植民地当局が総督府と総督官邸として新たに建設したものを、急
遽独立のタイミングに合わせて国家宮殿として改装し、国会議事堂として使えるようにしたもの
です。入り口の広場には馬上のレオポルド2世像が建てられています。
式典の当日となって、ボードワン国王はルムンバ首相の演説の内容についての情報を聞かさ
れ、非常にショックを受けました。しかし、自らの演説の内容を修正する余裕もなかったのです。
側近たちが書き上げた演説原稿は温情主義的な言葉に満ちたもので、国王は、コンゴを植民
地として築き上げたレオポルド2世に賛辞を捧げ、それ以来の植民地政策が、現地の人々の
文明開化をもたらしたことを強調し、ベルギーが築き上げた素晴らしいコンゴの国を、コンゴの
人たちが立派に引き継いでくれることを願う趣旨の内容でした。
これに対しカサヴブ大統領は、ベルギーが独立を与えてくれたことに謝意を表することを基調
とした演説を行いました。彼はルムンバが過激な演説をすることをうすうす感じて、何とかルム
ンバを牽制しようとしたのです。
それにも拘わらず、パトリス・ルムンバが始めた演説は過激で、挑戦的であり、独立とは植民
者から有難くいただいたものではなく、自分たちの力で血を流して勝ち取ったものであると言い
放ちました。ルムンバの言葉は、国家宮殿を埋め尽くしたコンゴ人の政治家、各界と各地域の
代表者たちの民族意識に火をつけました。曰く、「80年間の植民地体制の下にあった我々の
運命がどのようなものであったにせよ、我々が受けた傷は余りにも痛ましく、苦悩に満ちたもの
であった。我々はそのことを記憶から消し去ることができない。我々は過酷な労働を要求され、
その代償にもらった賃金では、飢えを満たすことも、着飾ることも、人間らしい家に住むことも、
愛すべき子供を立派に育てることもできなかった。我々は朝に、昼に、夜に、皮肉られ、侮辱さ
れ、殴打された。それは単に、我々が《黒人》であったからである。人々が黒人を《君》(*1)呼ば
わりするのを誰が忘れられようか。それは、友人に対する親しみを込めた《君》ではないからで
あり、尊敬を込めた《あなた》(*2)という呼び方は、白人の間でしか使われなかったからであ
る。 (中略) 我々は、兄弟たちが殺される銃殺の場面や、不正と弾圧と搾取に反抗した者が手
荒く投げ込まれた監獄をどうして忘れられようか」。
これらの言葉にコンゴの人々は熱狂的な拍手を送り、歓声を上げました。予期せぬ演説の激
しさに驚いたウィニィ外務大臣は、エイケンズ首相の耳につぶやきました。「このような話は、一
国の首相がこのような時にやるべきことではないでしょう」。
ルムンバは、拍手の鳴る間に、興奮し過ぎた神経を静め、雄弁家としての理性を取り戻しまし
た。そして、演説のトーンはますます高揚したのです。ボードワン国王は、冷たい視線の中で硬
直して、ルムンバの攻撃に曝されて蒼白になりました。国王はたまりかねて、その場を立ち去ろ
うとしましたが、側近の人たちに宥められて、その場に留まっていました。
最後に、ルムンバ首相は、議会の少数派の人々に建設的な協力を要請し、我々のエネルギ
ーを浪費させ、海外での我々の信用を失墜させる部族間の紛争を、何としても避けることを願
いました。さらに、新生国家の発展に協力してくれる善良な外国人については、その生命と財
産の安全を保障すること、そして全国民に対して、コンゴの経済的独立を達成し、国民経済を
繁栄させるため、皆が仕事に励むよう要請して、演説を終えました。演壇を下りながらも、激し
い拍手は3分間以上続き、人々の歓声は鳴り止みませんでした。
バスの中ではガイドのエルカン氏が今日も話し続けています。
『トルコ人の平均寿命は男性68歳、女性72歳です。 日本人と比べて男女共に10歳早いです。 死因は主に心臓病と肺癌、そして糖尿病であり、その病原としてはテロや金銭的な問題からくるストレスや油っぽいトルコ料理が心臓病を加速していると思います。肺病� �関していうとトルコのタバコのタールが最低でも7mgからと強いこと、糖尿病に関してはデザートが甘すぎるからかもしれません』
...納得だなぁ〜と聞いている私。 その他、次から次へとたくさんの情報を話してくれました。(ついてきてくださる方は是非ご一読を↓)
*チューリップやヨーグルトは実はトルコが発祥の地であること。
(オランダとブルガリアだと思っていました)
*トルコの男性は20歳から30歳までの間に6ヶ月〜15ヶ月間軍隊に入隊することが義務であり、入隊していない男性は男として認められない風潮が昔は色濃かったこと。
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一六〇七年、会社組織で着手されたイギリスのヴァージニア植民地も最初の一〇年は絶滅の危機に瀕したが、ヴァージニア会社の大口出資者に対して、一六一八年、多数の小口出資者が始めた経営改革運動(サンズの改革)が功を奏して立ち直っ� ��。この頃から北米大陸東岸地帯(ニューイングランド)へのイギリスの非国教徒の集団移住が始まる。本国て宗教的弾圧を受けた人々が新大地で新しい集団生活を始めることを主要な夢とした点に彼らの特徴があったが、生活空間を確保するには先住民を排除撲滅する必要があったことに変わりはない。
なぜ、そして、どのようにして、北米に黒人奴隷制が持ち込まれたか? これは重要な問題だ。私が今から記述することは、反米感情を下敷きにした歴史の書き直しではないシュブァイカート・アレンの『愛国者のアメリカ史』にもジンの『民衆のアメリカ史』にも、また、あれこれの学問的アメリカ合州国史に目を通しても、つまり、右からでも左からでも、おおよそ同じような答えが与えられている。
!doctype>by マイケル・A・フーコ:ピッツバーグ・ポスト・ガゼット紙2005/04/29付け記事
悲惨な紛争の結末を告げるイメージとして、サイゴンのアメリカ大使館の屋根からアメリカ人や南ベトナム人たちがヘリコプターで脱出する際に見せた恐怖と混乱ほど、戦争論議にふさわしいものはないだろう。
最後の脱出者が海外に出て4時間後、南ベトナム政府はベトコン(ベトナム共産勢力)に対する無条件降伏宣言をした。長い間多大な犠牲を生んできた戦争は終わった。
その終戦から明日(4月30日)で30年目を迎えるが、戦争における不名誉な結末について、大規模な追悼が行われないのは無理もないだろう。
理解し難いのは、教育関係者の多くが言うように、アメリカ合衆国の政策、社会、文化に深刻な影響を与えたあの戦争の教訓について、なぜ充分に米国の学校で検証されないのだろうということである。
そして、ベトナムにおける犠牲者や、成功と失敗に関する知識不足が、アメリカの若者を駄目にしているのではないか。
スティーブ・ジャクソンもそれを恐れている。
ペンシルバニア州のインディアナ大学で政治学教授を務めるジャクソン氏の説明によると、彼が開講しているアメリカ政治学入門コースに籍を置く学生のほとんどが、ベトナム戦争とその教訓について全く知らないという。イラクへの介入が続く現在は特に、ジャクソン教授はそうした無知を問題視している。
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カナダの多文化主義政策の動向
BOOK REVIEWED:Augie Fleras & Jean Leonard Elliot, Multiculturalism in Canada: The Challenge of Diversity, (Scarborough: Nelson Canada, 1992, xv+326pp.)
1. 多文化主義の研究
評者はカナダの憲法問題と先住民政策に関心をもつことから、多文化主義にも相当な関心を払ってきた。しかし、これについての評価や関心状況がかなり不均等であることに疑問をいだいてきた。まず、カナダの国内において、イギリス系カナダ人とフランス系カナダ人のあいだでは、理由は異なるにせよあまり高い関心や評価が与えられていなかったような印象を持っていた。評者の「類推」によれば、イギリス系カナダ人は、かれらがカナダを構成する有力な集団である点を認識しているので、わざわざ多文化主義や多民族性という事柄に強い関心を払う必要はあまりない。あくまでもかれらの優位性を確認すればよい。他方、フランス系カナダ人はカナダが少なくとも二言語・二文化という枠組みで維持される� ��とが望ましい。したがって、場合によっては、フランス系カナダ人をほかの移民と同じ位置におく可能性を持つ多文化主義の理念や政策を積極的に評価することはむつかしい。このため、1970年代の初頭に導入されたこの考えは、二つの有力集団からは、高い関心を払う対象ではなかった、と個人的に考えている。
反対に、多文化主義に関心を払い、それなりの評価をおこなってきたのは、イギリス系カナダ人とフランス系カナダ人以外の集団のように思われる。たとえば、西部のウクライナ系カナダ人が中心となり、多文化主義についての包括的な研究が1978年に刊行されている。さらにカナダを離れた外国では、多民族国家の望ましいモデルになり得るのではないか、という期待感も含め、多文化主義への関心が高いように考えられる。当然、日本においても、多文化主義に関する論文や著作、さらにはカナダ学会以外の専門学会で研究報告がなされるような状況になってきている。時には、カナダ国内よりもカナダ以外の国や地域で多文化主義が熱心に語られる、というようなこともあろう[1]。
!doctype>26 人中、25人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0 政治家的思考と軍人的思考,
レビュー対象商品: 第二次世界大戦〈1〉 (河出文庫) (文庫)
天安門事件からちょうど20年が経過した今日、私がゾッとするのは、中国の若者の多くが「天安門広場で何が起こったか」をほとんど知らないことだ。
天安門事件から世界が学ぶべき教訓――イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト(1) | 国際 | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン
!doctype> 『週刊新潮』 2012年1月19日号
日本ルネッサンス・拡大版 第493回
国際政治はいつの時代も首脳の資質に左右される。1981年に誕生した米国のレーガン大統領は、79年に政権を奪取した英国保守党のサッチャー首相、さらには82年に首相となった中曽根康弘氏らと社会主義体制のソ連邦と対峙した。
自由と民主主義陣営が冷戦に勝利して、ユーラシア大陸のアジアには5つの一党支配の社会主義・共産主義国が残った。中国、北朝鮮、ベトナム、ミャンマー、ラオスである。
冷戦終結から約20年、私たちは再び、国際政治の大変革の時期を迎えている。現在は、5つの国々の内、今に至るまで他国に脅威をもたらし続ける一党独裁の2つの国、中国と北朝鮮との闘いが激しさを増している。それは歴史の前進か後退かを巡るせめぎ合いだとも言える。自由� ��尊重し、法治と民主を基盤にした透明な国家運営を推進するのか、一党独裁と軍事力で国民の声を圧し一握りの権力者を主軸に国家を運営するのかを決する闘いでもある。
闘いの主役は諸国の首脳だが、アジア、太平洋、ヨーロッパの主要国首脳は今年、軒並み交代する可能性がある。
北朝鮮にはすでに三代世襲の金正恩新指導部が誕生した。その影響は、後述するように米中の対立を深め、最悪の場合、軍事衝突につながりかねない。日米韓対中国という対立の構図はすでに明確になりつつあり、日本政府は最悪の場合も想定して、覚悟と準備を整える局面だ。
台湾では、今週末の1月14日、総統選挙が行われる。中国寄りの国民党・馬英九氏の再選か、台湾の現状維持を目指す民進党の蔡英文氏の勝利か。結果は中国の� �湾併合と、南シナ海、東シナ海、インド洋への進出をさらに促すか阻むかを決する要因となるもので、極めて重大である。結果次第では、日本、ASEAN、米印豪諸国は中国と先鋭的に対立する構図に追い込まれる。
3月4日はロシアの大統領選挙だ。プーチン首相の強権政治に国民は強い批判を表明しているが、プーチン氏の大統領への返り咲きは現時点では堅いと見られている。
だが、プーチン氏のロシアにも、2010年末にチュニジアで始まり、エジプト、リビアなどの独裁政権に崩壊をもたらした中東のジャスミン革命の波が達している。ロシアや中国にとって、この民主化運動ほど恐怖の種はないはずだ。恐れる余り、彼らは国内だけでなく、対外政策においても弾圧と強硬策に走る。彼らの弱点こそ日本の強みであることを忘� �てはならない。
4月11日は韓国の総選挙だ。昨年10月のソウル市長選挙では骨の髄からの左翼といわれる朴元淳氏が勝利し、韓国における左派勢力の浸透振りを見せつけた。4月の総選挙、12月の大統領選挙での与党ハンナラ党の敗北と左翼の野党の勝利が予測されるゆえんである。
!doctype>『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』(ゼルダのでんせつ スカイウォードソード、英題:The Legend of Zelda: Skyward Sword)は、任天堂より発売されたWii用アクションアドベンチャーゲーム。
ゼルダの伝説シリーズにおいて、Wiiで発売された作品としては『トワイライトプリンセス』(2006)に続く2作目[2]である。
ただし、『トワイライトプリンセス』は本来ニンテンドーゲームキューブ用ソフトとして開発された作品であったため、本作は純粋にWii向けに開発された初のゼルダ作品となる。
Wiiモーションプラス(Wiiリモコンプラス)を用いた直感的な操作に特化しているのが最大の特徴であり、『Wii Sports Resort』のような操作感覚で様々なアイテムを用いることが出来る。開発期間は実に5年にわたり(後述)、キャッチコピーに『濃密ゼルダ』とあるように、ゲームのボリュームだけでなく、遊びそのものの密度に重点が置かれている。またテレビCMでは「ゼルダの伝説、はじまりの物語」とされているように、現時点で今作がシリーズ通して時系列的に最初の物語となる事が示唆されている。
ゲーム雑誌『ファミ通』のクロスレビューでは史上16作品目となる40点満点を獲得。ゼルダシリーズでは3回目になる。また、任天堂としては珍しく、ターゲット層や平均プレイ時間について具体的に回答している。詳しくはクロスレビュー#歴史の項を参照のこと。
テキスト表示において漢字にふりがなを表示すること、画面表示のアスペクト比を「4:3」から「16:9」を変更することが可能となっている。
『風のタクト』のように今作を一度クリアすると、二周目として「辛口モード」という高難易度のゲームモードがプレイ出来るようになる。このモードでは『時のオカリナ3D』の裏ゼルダのように敵から受けるダメージがニ倍になるなど、一部の仕様が変更されている。データ作成の際は一周目のデータに上書きされる形になるが、虫やお宝の一覧、入手した数、敵を倒した数等は引き継がれる。
グラフィックは印象派の絵画を彷彿とさせるような淡いタッチの色使いが特徴。人物のキャラクターデザインは『トワイライトプリンセス』に近いものであるが、敵キャラクターや亜人族などのデザインは『風のタクト』や『神々のトライフォース』での方向性に近い独特のものである。また、背景と人物についても絵のタッチが異なる。
空に浮かぶ浮島スカイロフト。そこでは人々がロフトバードと言われる巨大な鳥にまたがり、自由に空を飛んで平和に暮らしていた。このスカイロフトの騎士学校で騎士を目指す青年リンクは、上級学年への昇進試験を兼ねた「鳥乗りの儀」に参加する。
儀式は優勝すれば女神様役である幼馴染のゼルダから大切なプレゼントが貰え、憧れの騎士への過程となる大事な日であった。多少トラブルもあったが儀式も無事に終了し、リンクはゼルダと共にロフトバードで試験後の気分転換に空の散歩を楽しむことにする。ところが飛行中に黒い竜巻が突如2人を襲い、激しい暴風にリンクはロフトバードと共に飛ばされ、ゼルダは竜巻に飲まれ雲海の下へと消えていった。竜巻に飛ばされ薄れゆく意識の中でリンクは自分に呼びかける謎の声を聞く・・・
しばらくしてリンクが目覚めると、そこはスカイロフトの騎士学校にある自室であった。ゼルダの父親であり騎士学校の校長ゲポラに黒い竜巻がゼルダを飲み込んだ事を告げると、古の伝承とゼルダが残した言葉を照らし合わせ、二人はまだゼルダが生きているという希望を見出す。 一方リンクはその夜、校内に現れた謎の人物に導かれるようにスカイロフトにある女神像の元へ足を踏み入れる。女神像の中に入るとそこには石の台座に突き立てられた一振りの剣があった。
リンクを導いた謎の人物はこの剣の精霊「ファイ」。ファイはリンクに女神から授かった大いなる使命が、ゼルダを見つけ出す道に繋がると告げ旅立つ事を促す。ゼルダを見つけ出す望みと古の伝承がリンクの事であったと確信したゲポラは、旅支度にと今年の騎士見習いの制服である「緑色の服」と「三角帽子」を贈る。女神からの贈り物「女神の剣」を手に、未だスカイロフトの住人が足を踏み入れた事の無い雲の下の大地へと、ゼルダを探すためのリンクの冒険が始まる・・・
今作では「ロフトバード」という鳥が主な移動手段となり、空のフィールドを自由に飛び回れるシステムが取られている。雲の下の世界である「大地」のフィールドも、物語を進めるにつれて変化していくようになっている。
先述の通り、シリーズ中の時系列では最古の時代だと示唆されており(それまで最古の時代とされてきたのは『時のオカリナ』)、これまでの作品では「退魔の剣」、「万能の力」としか語られていないマスターソードやトライフォースの誕生の経緯や、ゼルダがなぜシリーズ中で「伝説」として扱われるのかが描かれるとしている[3]。
!doctype>「日本が本気になればいつでも核武装できる」と信じてる人は多いようだが、実際は不可能だ。
中国は日本が核武装するのを絶対に許さない。日本が核開発を始めたら中国は日本の核施設を空爆して来ます。だから物理的に作る事ができない。
国連には敵国条項が残ってて日本とドイツが怪しい動きをしたら無条件に攻撃して良い事になってるw 核開発なんてやってたらアメリカも守ってはくれないよ。
空爆しなくてもサイバー攻撃だけで阻止されてしまうかも知れません。イランの核開発は核施設の破壊を目的としたコンピューターウィルスに感染した事によって設備が暴走・破壊された。
日本はサイバー戦争のノウハウがないに等しい。まずサイバー攻撃に対する備えから始めなくてはならない。
核開発は簡単ではなくて実用化に10年はかかる。少なくとも10年間は国策として核開発する強力な内閣が必要になるが、日本では10年続く政権を作る事すら難しいw
経済至上主義で銭ゲバな日本国民は経済制裁されれば手の平返して核開発に反対するだろう。核武装は国民の支持も得られない。
「スパイ天国」と称される我が国で秘密裏に核開発を進めるのは不可能。数百万人の在日中国人もあの手この手で妨害してくる。
20世紀中であれば、あるいは可能性があったかも知れない。しかし今や超大国化した中国の干渉をはねのけて日本が核武装できる可能性はゼロです。
日本の保守派はさっさと「日本の核武装化」と言う夢を諦めた方が良い。「いつか核武装するために原発を残す」なんて女々しい事はするな!
原発は核抑止力にはならない。核保有するなら日本は全てを失う事になる。その覚悟を持たずに原発だけ持っていても全くの無駄でしかない。
よしりん大先生も「核より覚悟を持て」と言ってました。核兵器を持てない以上、日本に残された道は半永久的に米中の属国になるか、外交努力で上手く立ち回って生き残りを図るかだ。
核武装の希望にすがって外交努力を怠ると結果的に永遠に属国の地位に甘んじる事になってしまいます。。。
世の中から争いがなくならない根本的な原因は、人間が争い好きだからではないでしょうか?
人には闘争本能があり、生まれつき闘いを好む様にプログラムされている。
漫画とかでも一番人気があるのはバトル物ですからね。我々には戦闘を求める本能があるのです。
戦争は一種のエンターテインメントなのです。レールガンみたいな超兵器作ったって使い道なんてないだろうに、それでも作ろうとするのは「楽しいから」という理由以外にないでしょう。
実際に戦争すると被害も大きいので通常はゲームや漫画やスポーツの世界で闘争本能を発散させている。
ゲームもスポーツもないような国では欲求不満の捌け口として紛争が起こり易くなるのでしょう。
もし「国家の代理戦争」とまで呼ばれるサッカーがなくなったら世界中で戦争が起こるのではないかw
闘争本能をスポーツや観劇によって昇華するのが文明国です。二次元の表現規制なんてしたら欲求不満から争いが多発して野蛮人に逆戻りしてしまいますよ、と。。。
わーい死んだ爺さんが「不景気なったら書生っぽやらスネかじりが見てきたみたいに外国が攻めて来るとか言い出すからな。世の中不安になったら今度はお上が本やら芝居やらが低俗や、けしからん言い出したら戦争や。みんな戦争したなるねん。わしそんなん2回も見た」って言ってた通りになってるーTwitter / chodo
マルサスの「人口論」によると食糧の生産量が少しずつしか増えないのに比べ、人口は倍々ゲームで増えていくので必然的に食糧が足りなくなり、その為に争いが起こるという。
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2011年9月22日 木曜日
◆【書評】『最強国の条件』(エイミー・チュア著/徳川家広訳/講談社/2940円) 9月22日 【評者】山内昌之(東大教授)
現在の国際関係を考える上でも有益な書物である。強国のなかにも「最強国」とそうでない強国があるという筆者の議論は正しいだろう。漢やローマは最強国であったが、アステカ帝国は最強国でなかった。この差異はどこから来るのであろうか。
筆者は、最強国の条件として三つを挙げている。その第一は、国力全般において同時代の既知のライヴァルを上回っていることだ。第二は、軍事力と経済力で同時代の地球のどの国家よりも勝っていることである。第三は、地球的な規模で影響力を発揮する強国だということであろう。
こうした条件を考えると� �意外なことに、ルイ14世のフランスや冷戦時代のアメリカは最強国でないことになる。また、いちばん大事な条件は寛容さだという指摘は間違っていない。それは、いまのアメリカやアケメネス朝ペルシア、さらにモンゴル帝国や大英帝国を意識すれば正しいからである。
オスマン帝国もこのカテゴリーに入るに違いない。人種構成の多様さを逆手にとるしたたかさをもたないと最強国になれないのは、いまのアメリカに限ったことではない。たとえば紀元前500年のペルシアの首都ペルセポリスでは、ギリシャ人の医師、エラム人の書記、リュディア人の木工職人、イオニア人の石工に加えてサルディア人の鍛冶師も住んでいたというのだ。まるでいまのニューヨークのようではないか。
!doctype>政権交代以来、米国政府や財界、官僚、マスゴミなど、旧勢力の抵抗は強大です。
民主党政権は旧勢力に完全に屈服。
政権交代の原動力であった「2009マニフェスト」は簡単に捨てられ、民主党は瞬く間に自民党化してしまいました。
いま、野田政権は売国政策であるTPP参加と消費増税に必死。いずれも公約になかったものです。
そうした中、橋下徹大阪市長が率いる大阪維新の会は鬱積する国民のはけ口になりつつありますが、彼らは単純な新自由主義者。
財界に奉仕することが目的で、国民を必ず裏切ります。
東日本大震災から約1年。福島第一原発事故はチェルノブイリ原発事故以上の大惨事です。
菅・野田政権の馬鹿が、大事故をさらに深刻にしています。
放射能汚染が止まりません。汚染はいまも日本国中に広がっています。国民の生命と経済活動が受ける影響は計り知れません。日本の終了は間近です。
なお、政官財などによる粘着・荒らし・ストーカー行為は禁止。あった場合は無視か適当にあしらってください。
part4は、
です。
真に重要なニュースは何か、自分の力で見極めましょう。
実態経済は死んでます。
国際通貨基金(本部・ジュネーブ)は日本の円を「取り引き停止紙幣」にしました。
消費増税、法人税、地方法人特別税、ガソリン税、地方ガソリン税、石油・ガス税、相続税
贈与税、登録免許税、酒税、タバコ税、関税、トン税、石油・石炭税、自動車重量税、航空機燃料税
電源開発促進税、特別トン税、印紙税、厚生年金税、雇用保険税、労働保険税、国民権保険税 、宝クジ税
市町村法定外目的税、宅地開発税、共同施設税、都市計画税、事業所税、入湯税、パチンコ税、競馬税、ギャンブル税
市町村補訂外普通税、水利地益税、特別土地保有税、鉱産税、市町村タバコ税、軽自動車税
固定資産税、住民税、道府県法定外目的税、狩猟免許税、鉱区税、自動車税、軽油取り引き税、自動車取得税
固定資産特別税、ゴルフ場利用税、道府県タバコ税、不動産取得税、地方消費税、事業税、すべての商業取り引き行為に
消費増税、自動車免許更新税、ガソリン消費税、電気代消費税、食料代消費税、電車消費税、タクシー消費税、バス消費税
その他すべてに消費税、金持ちも貧乏人も六本木ヒルズの住民も福島の部落民も食い物、電気代すべてに
で同じ消費税10パーセントを今の国会で増税します。
上海総合株価指数と深セン株式市場は急落して終わっています。
深セン株式市場 −4.08%
上海総合株価指数 −2.65%
中国バブルが本格的に破綻しつつあるなか、権力闘争が起こり、最悪の場合、内戦も想定される事態になってきており、中国リスクは今後更に高まることになれば世界は大混乱に陥ります。
・「子作り」とはどういう事か。
よ く 考 え て く だ さ い。
生まれた子供はどういう目に遭いますか?
また、どんな目に遭う可能性がありますか?
想定出来る事だけでも不幸苦痛の雨あられですね。
また、親の想定外の幸福も有り得ますが、
想定外の不幸も起こり得る事をお忘れなく。
・「自分の子に限って…」とか「ウチは大丈夫」とか…。
本当にそうでしょうか。よ く 考 え て く だ さ い。
・全ての苦痛は生まれる事によって生じます。
悲惨な状況を色々とイメージしてください。
生まれなければ、それらを 全 て 回 避 出 来 ま す。
・子供が悲惨な目に遭った時。原因は誰にあるのでしょうか。
どんな場合でもハッキリ言える事は、
親が産まなければ子供もそんな目には遭わなかったという事。
親 は 直 接 の 原 因 だ ろ う が。
この問題から逃げないでください。
・子供が欲しい方へ。
何故子供が欲しいのか、よく考えてください。
考えればわかりますが、全 て 自 分 の 都 合 で す。
消費税とは、日本にしか存在しない、憲法違反の税制度では.
マスコミや政府の偽りの報道
消費税とは、日本にしか存在しない、世界最悪の税金だ。
これほど、基本的人権を無視した悪税は、どこの国にもないだろう
憲法違反ではないだろうか。
水、米から、住居から、基本的人権のものまで、税金をとるというのだから、
マスコミや、政府の、偽りの翻訳に、だまされてはいけない
ヨーロッパや、アメリカなどは、Value Added Tax (VAT)は、、
消費税とは、まったく違う税金だ
東方問題とロシア
◎ロシアって、どうしていつも独裁政治なんですか?
ロシアはかつて、モスクワの周囲を持つだけの小さな国でした。それが数百年かけてウクライナ、リトアニア、ポーランドなど周辺民族を次々に併合し、19世紀には世界最大の領土を持つ帝国になりました。その結果、ロシア帝国における少数民族の割合は、人口の50%に達していました。このような国で、西欧型の民主主義、議会政治を採用したらどうなるか。国会議員の半数が少数民族となり、彼らがいっせいに独立を要求すれば、帝国は瞬時に崩壊するでしょう。
ロシアにおいて、民主主義は不可能なのです。帝国を維持するためには専制しかありません。また、少数民族の独立運動は、例外なしに弾圧しなければなりません。これが、ロマノフ家の基本政策です。
ナポレオンの侵略軍を撃退したロシア軍の青年将校たちは、占領したフランスで自由・平等の思想に目覚め、デカブリストという秘密結社をつくりました。憲法制定と農奴制廃止を掲げ、1925年の12月、ニコライ1世の即位の際に武装蜂起します。デカブリスト(十二月党)の反乱と呼ばれるこの蜂起は失敗に終わり、首謀者は処刑され、残りはシベリア送りになりました。
新帝ニコライ1世は、1830年(七月革命と同年)のポーランド反乱に際しても徹底的な弾圧を行いました。このとき、1万人のポーランド人がフランスなどへ亡命し、その中には作曲家でピアニストのショパンもいました。彼はポーランド独立運動をたたえる曲をたくさん作り、愛国者として尊敬されています。
48年革命(諸国民の春)のときは、ロシア政府によって未然に独立運動家が逮捕され、大きな運動にはなりませんでした。ロシアは、オーストリア帝国内の民族運動弾圧にも協力し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられました。
19世紀最後のポーランド反乱となるのは、63年の1月蜂起です。農奴解放令を出したアレクサンドル2世(あとで説明します)のロシア政府が妥協するだろうという甘い見通しは、すぐに裏切られました。再び激しい弾圧を受け、ポーランド語の禁止など、ポーランド文化の抹殺政策が実行されます。
カトリック教徒でラテン文字を使うポーランドに、正教徒のロシア人がキリル文字を強制して、反発を招いたのです。物理学者マリー=キュリー(キュリー夫人)は、少女時代の思い出を語っています。小学校ではポーランド語は禁止され、ロシア語を教えることになっていました。でも学校の先生は、ひそかにポーランド語の授業を続け、ロシア人の役人が来る日だけ、ロシア語で授業をする。そうやって、民族の文化を守ったのです。
◎少数民族をいじめるロシアが、どうしてバルカン半島の民族運動を支援するんですか?
飛行機のない時代、海外の植民地との貿易は、すべて船で行っていました。大西洋に面したイギリスやオランダが、植民地帝国を築いたのは偶然ではありません。ロシアがいつまでも後進国だったのは、港に恵まれなかったのが最大の原因です。
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カンボジア内戦は東南アジアのカンボジアにおいて、カンボジア王国が倒れたのち、1993年の総選挙で民主政権が誕生するまでの間、20世紀後半に続いた内戦状態をいう。
カンボジアは1949年にフランス領インドシナからの独立を認められ、ノロドム・シハヌーク国王によって統治されていたが、王政に対抗する国内派閥の抗争があり、国内には不安定要素を抱えていた。1965年2月にアメリカが北ベトナムの空爆に踏み切ると、シハヌークは対米断交に踏み切った。カンボジア領域内には北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線の補給基地が存在し、カンポン・チャム港はベトコンへの補給揚陸港として使用されていた。また、南ベトナム軍とアメリカ軍はカンボジア領内をしばしば領空飛行し爆撃を行った。国内は不安定だったものの、この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力であり、食糧生産は豊富で当時のカンボジアは食料輸出国だった。 アメリカは戦争遂行のためにカンボジアに親米的な政権を作る必要があった。
1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる[1][2]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はこれより安く、地元共産主義勢力は反米反政府のビラを撒き暴動を煽動した[3]。サムロート周辺の鎮圧作戦は数か月間続き、右派と左派の衝突は強まっていく。
シハヌーク国王がモスクワと北京を訪問中の1970年3月18日、下院で国家元首としてのシハヌークを退けることが満場一致で可決された。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となり、10月にクメール共和国の樹立を宣言した。一方、シハヌークの従兄弟シリク・マタクは、代理の首相としての彼の地位を保持した。
!doctype>アメリカ独立戦争における女性達(アメリカどくりつせんそうにおけるじょせいたち、英:Women in the American Revolution)では、アメリカ独立戦争中とその前後で、様々な立場に置かれた女性達がどのように行動し、またその立場がどう変わっていったかについて述べる。
独立戦争の頃、政治と戦争に参加するのは男性に限られていた。しかし、女性がいなければ政治も戦争も動かなかったことも事実である。積極的に戦争の遂行に協力した女性の中には歴史に名を留めた者もいる。8年間にも及ぶ戦争とその前後の激動の時代を生き抜くためには多くの試練に耐え、また生活様式を変えていくことを女性達に強要した。新生したアメリカ合衆国の中で、女性の姿がすこしずつ社会の表に現れ始めた時代とも考えられる。
アメリカ独立戦争は、戦うのは自分達だと考えていた男達によって遂行されたものと認識されている。しかし、この戦争は広く伝えられた主義信条がなければ続けられなかったのと同様に、アメリカ植民地中の男性と女性両方の住人によって物質的に支えられなければ遂行できなかった。公の政治の場面には女性が登場しないが、女性が戦争に直面し、戦争が政治や公衆・家庭内の生活のあらゆる面で浸透してくるに連れて、通常の家庭の振る舞いが政治的に重要な意味合いを持つようになった。
女性が自発的に愛国者であったかどうかという質問を戦争は投げかけるが、政治的な同一性を維持しつつ、植民地の女性達が態度で表してみせた。伝統的な女性の職業による支援がこのことをよく表した。戦場で起こったことは既に家庭でも、国内の経済でも、また夫や父親の実業の世界で受け入れられていたことだった。女性達はイギリス製品のボイコットに参加し、兵士のための物資を生産し、イギリス軍の情報収集活動をやり、軍隊と行動を共にして兵士達のために洗濯や料理を行い、極秘の伝令となり、時には男性に扮して戦場で戦った。
独立戦争の当時、女性は家庭内の諸事を遣り繰りする責任があった。このことに関連して女性はホームスパン運動で働いた(ホームスパンは手織りの布)。輸入されたイギリス製の衣服を着たり購入する代わりに、愛国者の女性達は長く伝統のある機織りや紡績をやって自分達の衣類を家族の衣類に作り替えた。独立戦争の前の数年間における事態の推移により、この行動は政治的な意味合いを与えられた。糸を紡ぎ機を織られた「アメリカ製の」衣類は反抗の中の一機構となり、消費についても同じような行動となった。1769年、クリストファー・ギャスデンは植民地の女性達に直接呼びかけた「この危機に及んで我々の政治が動いていくかは、緊縮財政に係っており、それをなすためには女性達が主となって礼節とともに遣り繰りして いくかに掛かっている。(サウスカロライナの農園主、機械工、不動産の自由保有権者に。イギリス製品の輸入を閉ざせ。1769年6月22日)。イギリス製織物のボイコットに加えてホームスパン運動は大陸軍が必要とする衣類や毛布を生産することで貢献した。男性の製造業者はそのような製品と交換に徴兵を免れていたが、同じことをやる女性にはそのような代償も無かった。紡績、機織り、縫製は植民地の女性達の一部の仕事になった。愛国者としてその技能を使い独立戦争に荷担したことになった。
国内経済が沈滞する中で、主婦はその購買力を使って愛国者側の製造者を支援した。女性はイギリス製品を家庭用に購入することを拒絶した。例えば紅茶のボイコットは自分やその家庭が愛国者の立場に立っていることを表明する比較的やさしい方法であった。1773年のボストン茶会事件はボイコットの表れとして最も広く認識されているが、この爆発的な行動の何年も前に愛国者の女性達が政治的声明としてまさにそのイギリス製品の消費を拒んでいたことは重要である。同様なボイコットは様々なイギリス製品に広がり、女性達は購入する代わりにアメリカ製品を作り出す道を選んだ。この「非消費ボイコット」が国家的政策によっていた(作ったのは男性)としても、女性はその支配する家庭の中で実行に移したのである。
女性達は経済活動にも積極的に関わった。1778年、一団の女性が、コーヒーを貯蔵しているという商人の噂に接してその倉庫に乗り込んだ。女性達はは倉庫を開放し、コーヒーを取り出して「没収」した。
独立戦争中、アメリカ製品を買うことは愛国者であるという姿勢を見せることであった。加えて倹約(独立戦争前は賞賛される女性の美徳)は政治声明となり、家事の切り盛りで戦時体制に貢献するよう求められた。しかし、戦時体制を維持するための女性達に対する要求は家庭内経済による貢献を超えるものになった。女性達はその家屋そのものを公衆の益のために差し出すことを求められ、共和制が形を取るにつれて大陸軍の兵士や役人の宿舎にも提供された。
女性達はフィラデルフィア婦人協会のような組織を通じても愛国者側に貢献した。この組織は戦時体制に貢献する女性の能力を組織として活用したものである。フィラデルフィアの女性達は資金を集めて戦費の助けとした。これはマーサ・ワシントンが受け取って、その夫ジョージ・ワシントン将軍に渡された。他の植民地でもこの例に倣い、エスター・デバート・リード(ペンシルベニア知事の妻)やサラ・フランクリン・バッチ(ベンジャミン・フランクリンの娘)が起案者となった。1780年、戦争も半ばの頃、植民地から上がった女性組織によって集められた資金は34万ドル以上にもなった。
多くの愛国者女性は自分の家で植民地軍を支える活動を行ったが、戦争の最前線にいて厳しい現実に直面した女性もいた。戦闘が家産に近づくにつれて、それを守ろうと奮闘する女性達は暴力の脅威に直面することになった。敵の軍隊による陵辱は常に可能性があり、一人で家を守る女性には恐怖の根源であった。イギリス軍の略奪者から守るために武器と度胸を備えなければならない女性もいた。
周りに男性がいない家に留まることを拒む女性がいれば、夫の留守中に経済的にやっていけない女性もいた。このような女性達は大陸軍に付いていき、将兵達の洗濯女、料理人、看護婦、裁縫師、性の相手、清掃人などをこなし、時には兵士あるいはスパイとなった。軍隊についていく女性達は、指揮官達によって「必要な厄介者」とか「お荷物」と呼ばれた。それでもこれらの女性達は軍宿営地の運営を円滑にする役割を果たした。売春婦もいたが、性病の蔓延を恐れた軍の指導者にとっては迷惑な存在であった。
!doctype>
最初に多少躊躇いがあったヘンリー八世も最終的には彼女の姦通を信じたのではないかという記事を読んだ事があります。
2008/9/8(月) 午前 7:46 [ fminorop34 ]